郡山遺跡、平安期の祭祀址、鎌倉期に摂津を勧請した住吉山医王寺
[住所]宮城県角田市枝野郡山5
[電話]0224-62-2415
住吉神社(すみよしじんじゃ)は、宮城県角田市にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
鎮座地は、伊具郡衙や寺院跡とされる「郡山遺跡」の一部。平成17年(2005年)度に行われた発掘調査で、当社に隣接する畑からは「滑石子持ち勾玉」が出土した。
このことにより、当社付近では平安時代前期(8-9世紀頃)には神事や祈願が行われていたと推測されている。
当社は、創建当初「住吉山医王寺」という山号だった。同寺では住吉三神と本地仏である薬師如来を祀り、病気の治療や民衆の安定を図る地となっていた。
鎌倉時代の嘉暦元年(1326年)3月29日、摂津国に鎮座する住吉大社より住吉三神の御分霊を勧請し、現社号を称するようになった。
表筒之男命(別名:磐土神、上地廼雄神)、中筒之男命(別名:赤土神、中地廼雄神)、底筒之男命(別名:底土神)の男命三神を祀る。
しかし、土地の人々からは勧請された年号にちなみ「嘉暦明神」や「枯木明神」と呼ばれた。
御祭神も住吉三神の中の2柱、上地廼雄命(表筒男命)と中地廼雄命(中筒男命)だけを祀っていたと記録されている。
嘉暦年間の郡山地区は麻績郷という伊具郡五郷のうちの一つで、当社付近も陸奥国へ向かう人々などの往来があったという。
『安永風土記』によれば、元禄14年(1702年)、藤尾地区大門にあった鬼越山東光院の修験者である不動院元真が、医王寺に東光院の末寺として「本山派善光院」を開院、住吉社と薬師寺を別当所とした。
善光院と住吉社はその後火災に遭い、寺社の財産や当時の社殿は全て焼失しており、記録資料は残されていないという。
院主3代目の善光院真清の代の正徳2年(1712年)には焼失した社殿を再興して、名称を現社号に改称して村の鎮守社となった。
昭和54年(1979年)に行われた郡山遺跡の発掘調査では、総柱式の南面する建物跡や「複弁蓮華文軒丸瓦」が発掘された。
これらは本格的な瓦葺きの建物があったことを示す証拠であり、当時の当社の隆盛と崇敬ぶりをうかがえる資料とされた。
当社の神職家である小梨家の歴代墓所には、権僧都や法印の名が残されており、小梨家は代々、善光院の法印、もしくは当社別当を勤めていたとされる。
明治13年(1880年)8月、当時の法印である法印賢了の子・小梨善光は、明治15年(1882年)に当社の社掌となり、別当所である枝野地区畑中の薬師寺は善光の弟の賢学が法印となり分立した。
その後、小梨善光は現在の当社へ至る基礎を築き上げ、明治5年(1872年)10月、村社に列し、明治40年(1907年)1月に幣帛供進神社に指定された。
小梨善光は大正3年(1914年)に没するが、小梨家に養子となった小梨保則が社掌となった。
小梨保則は明治29年(1896年)から大正4年(1915年)まで枝野小学校の校長を務め、退職後は当社の神職として貢献し、昭和3年(1928年)には現社殿の建立に尽力した。
小梨保則の没後は神職不在となり、島田地区に鎮座する延喜式内社の熱日高彦神社や丸森町小斎地区に鎮座の小斎鹿島神社の兼務社となった。
昭和28年(1953年)に小梨保則の孫嫁が宮司となってから現在に至るまで小梨家が再び当社の社家として奉仕している。
参道の途中には「道祖大神・丑寅居内明神」という石祠が祀られ、巳待の石碑、猫神の石碑などがある。
境内社の蚕神様社は、もとは笠松地区に鎮座していたものを道路拡張工事に伴い当社へ遷座した。朱色の長衣を身につけた細身の女神の木像が祀られている。
また、足尾山石碑、青麻大権現、蚕供養碑、山神碑、湯殿山石碑、金華山石碑、天照皇太神宮・金毘羅大権現石碑、古峯神社、蚕養峰神の石碑などが祀られている。
樹齢約700年の老杉の大木が2本、境内参道脇に立ち、現在の絵馬堂は、正徳2年に再築され昭和3年まで使用されていた旧拝殿を流用したもの。
【ご利益】
病気平癒、身体壮健、病魔退散
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・宮城県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、宮城県に鎮座している神社の一覧
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住吉神社(すみよしじんじゃ)は、宮城県角田市にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
鎮座地は、伊具郡衙や寺院跡とされる「郡山遺跡」の一部。平成17年(2005年)度に行われた発掘調査で、当社に隣接する畑からは「滑石子持ち勾玉」が出土した。
このことにより、当社付近では平安時代前期(8-9世紀頃)には神事や祈願が行われていたと推測されている。
当社は、創建当初「住吉山医王寺」という山号だった。同寺では住吉三神と本地仏である薬師如来を祀り、病気の治療や民衆の安定を図る地となっていた。
鎌倉時代の嘉暦元年(1326年)3月29日、摂津国に鎮座する住吉大社より住吉三神の御分霊を勧請し、現社号を称するようになった。
表筒之男命(別名:磐土神、上地廼雄神)、中筒之男命(別名:赤土神、中地廼雄神)、底筒之男命(別名:底土神)の男命三神を祀る。
しかし、土地の人々からは勧請された年号にちなみ「嘉暦明神」や「枯木明神」と呼ばれた。
御祭神も住吉三神の中の2柱、上地廼雄命(表筒男命)と中地廼雄命(中筒男命)だけを祀っていたと記録されている。
嘉暦年間の郡山地区は麻績郷という伊具郡五郷のうちの一つで、当社付近も陸奥国へ向かう人々などの往来があったという。
『安永風土記』によれば、元禄14年(1702年)、藤尾地区大門にあった鬼越山東光院の修験者である不動院元真が、医王寺に東光院の末寺として「本山派善光院」を開院、住吉社と薬師寺を別当所とした。
善光院と住吉社はその後火災に遭い、寺社の財産や当時の社殿は全て焼失しており、記録資料は残されていないという。
院主3代目の善光院真清の代の正徳2年(1712年)には焼失した社殿を再興して、名称を現社号に改称して村の鎮守社となった。
昭和54年(1979年)に行われた郡山遺跡の発掘調査では、総柱式の南面する建物跡や「複弁蓮華文軒丸瓦」が発掘された。
これらは本格的な瓦葺きの建物があったことを示す証拠であり、当時の当社の隆盛と崇敬ぶりをうかがえる資料とされた。
当社の神職家である小梨家の歴代墓所には、権僧都や法印の名が残されており、小梨家は代々、善光院の法印、もしくは当社別当を勤めていたとされる。
明治13年(1880年)8月、当時の法印である法印賢了の子・小梨善光は、明治15年(1882年)に当社の社掌となり、別当所である枝野地区畑中の薬師寺は善光の弟の賢学が法印となり分立した。
その後、小梨善光は現在の当社へ至る基礎を築き上げ、明治5年(1872年)10月、村社に列し、明治40年(1907年)1月に幣帛供進神社に指定された。
小梨善光は大正3年(1914年)に没するが、小梨家に養子となった小梨保則が社掌となった。
小梨保則は明治29年(1896年)から大正4年(1915年)まで枝野小学校の校長を務め、退職後は当社の神職として貢献し、昭和3年(1928年)には現社殿の建立に尽力した。
小梨保則の没後は神職不在となり、島田地区に鎮座する延喜式内社の熱日高彦神社や丸森町小斎地区に鎮座の小斎鹿島神社の兼務社となった。
昭和28年(1953年)に小梨保則の孫嫁が宮司となってから現在に至るまで小梨家が再び当社の社家として奉仕している。
参道の途中には「道祖大神・丑寅居内明神」という石祠が祀られ、巳待の石碑、猫神の石碑などがある。
境内社の蚕神様社は、もとは笠松地区に鎮座していたものを道路拡張工事に伴い当社へ遷座した。朱色の長衣を身につけた細身の女神の木像が祀られている。
また、足尾山石碑、青麻大権現、蚕供養碑、山神碑、湯殿山石碑、金華山石碑、天照皇太神宮・金毘羅大権現石碑、古峯神社、蚕養峰神の石碑などが祀られている。
樹齢約700年の老杉の大木が2本、境内参道脇に立ち、現在の絵馬堂は、正徳2年に再築され昭和3年まで使用されていた旧拝殿を流用したもの。
【ご利益】
病気平癒、身体壮健、病魔退散
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