「下品な女神!」神罰下り死んだ実方中将の墓、明治に合祀された式内社
[住所]宮城県名取市愛島笠島字西台1-4
[電話]022-382-3887 - 佐倍乃神社
佐具叡神社(さぐえじんじゃ)は、宮城県名取市愛島笠島の佐倍乃神社に合祀された神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「佐具叡神社(陸奥国・名取郡)」に比定される式内社(小社)。
創建は不詳。飛鳥時代の第36代孝徳天皇(在位:645年-654年)2年に圭田を奉るとの記録がある。
江戸時代草創期の慶長7年(1602年)、野火にかかり社が焼亡し、所在不明となる。元禄2年(1689年)民家に小祀を発見、当社に比定した。
佐倍乃神社から北に1キロほどの場所に「実方中将の墓」と伝えられる史跡がある。
この墓の西側の民家裏に小さな神社があり、それが合祀前の当社の元宮である。
さらにその元宮の北数メートルの場所に、「佐具叡神社磐境地」と呼ばれる当社の神の依代となる石積みがある。
当社御祭神については諸説あるが、現在は造化三神の高皇産霊神とされている。
実方中将の墓について、『源平盛衰記』に経緯が記されている。
平安時代中期から後期と思われるこの時代から、明確に生殖器崇拝があったことを示すもの。
また、身分ある人にとっては、少なくとも人前で、それを「恥ずかしい、下品だ」と思う歓声が存在したことを示す、貴重な事例といえる。
ただし、京都の幸神社の伝承では、当社への分祀は南北朝時代の建武2年(1335年)とされ、時代が合わない部分もある。
明治41年(1908年)、佐倍乃神社に合祀された。春日造りの社殿が佐倍乃神社の境内に残る。
【ご利益】
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[電話]022-382-3887 - 佐倍乃神社
佐具叡神社(さぐえじんじゃ)は、宮城県名取市愛島笠島の佐倍乃神社に合祀された神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「佐具叡神社(陸奥国・名取郡)」に比定される式内社(小社)。
創建は不詳。飛鳥時代の第36代孝徳天皇(在位:645年-654年)2年に圭田を奉るとの記録がある。
江戸時代草創期の慶長7年(1602年)、野火にかかり社が焼亡し、所在不明となる。元禄2年(1689年)民家に小祀を発見、当社に比定した。
佐倍乃神社から北に1キロほどの場所に「実方中将の墓」と伝えられる史跡がある。
この墓の西側の民家裏に小さな神社があり、それが合祀前の当社の元宮である。
さらにその元宮の北数メートルの場所に、「佐具叡神社磐境地」と呼ばれる当社の神の依代となる石積みがある。
当社御祭神については諸説あるが、現在は造化三神の高皇産霊神とされている。
実方中将の墓について、『源平盛衰記』に経緯が記されている。
実方中将は一条天皇の御前で騒動を起こし、天皇の勘気を受け陸奥国へと左遷されることとになった。確かに、当社の御祭神が高皇産霊神であるとすれば、当社を女神とするのには無理があり、佐倍乃神社の主祭神の1柱、天鈿女命がこの物語の神にふさわしい。
この元宮の前(一説には佐倍乃神社の前とも)を実方中将が乗馬して通った時、土地の民が告げた。
「このお社の神は霊験あらたかで、賞罰をはっきり示される神です。どうか下馬して再度参拝してからお通りください」
これに対して中将は、「この社の神はどのような神か」と聞くと、土地の民は語った。
「京の都の賀茂の河原の西で、一条の北に坐す出雲路道祖神(現 出雲路幸神社)の娘です。
大切に育てられ、良き者がいれば嫁がせようとされていましたが、商人に嫁いだために勘当され、この国へ追いやられたところをこの地の人々が神として崇め祀ったものです。
身分の上下や男女問わず、願い事があるときは男根型の物を作って奉納し祈願すれば叶わない物事はないでしょう。どうぞ下馬した上で参拝し故郷へお帰りください」
それを聞いた中将は「なんて下品な女神だ! そんな神の前で下馬して参拝するには及ばない」と言い、そのまま馬に乗り走りだしたという。
神はそれを聞き大いに怒り、馬ともども中将を殺してしまったという。
平安時代中期から後期と思われるこの時代から、明確に生殖器崇拝があったことを示すもの。
また、身分ある人にとっては、少なくとも人前で、それを「恥ずかしい、下品だ」と思う歓声が存在したことを示す、貴重な事例といえる。
ただし、京都の幸神社の伝承では、当社への分祀は南北朝時代の建武2年(1335年)とされ、時代が合わない部分もある。
明治41年(1908年)、佐倍乃神社に合祀された。春日造りの社殿が佐倍乃神社の境内に残る。
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