鎌倉期の創建、吉田神道を崇敬した相馬昌胤が社殿造営を命じる
[住所]福島県南相馬市鹿島区南柚木字水神下282
[電話]-
伊勢大御神下大神宮(いせおおみかみ しもだいじんぐう)は、福島県南相馬市鹿島区南柚木水神下にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
鎌倉時代末期の元享元年(1321年)の創建と伝わる。
文保2年(1318年)、後の陸奥守・鎮守府将軍である北畠顕家の将となる結城宗広が、伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)に参籠した。
そこで鈴鹿家幸と出会い、神宮側に、この鈴鹿氏を奥州に招き、大神宮を分祀したい旨を伝え、了承されたという。
鈴鹿家幸は伊勢神宮長官従三位藤原家行の末子で、内宮と豊受大神宮(外宮)の争いに参加し、罪に問われていて、宗広の申し出は神宮側にとっても渡りに船だったようだ。
奥州に入った鈴鹿家幸が、当地の南柚木に至り、伊勢国五十鈴によく似ているということから、当地への分祀を進めたという。現在の神職家はこの家幸の子孫となる。
御祭神は天照大御神、天照大御神荒魂の撞賢木厳之御魂天疎向津比売命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)を祀る。
撞賢木厳之御魂天疎向津比売命は、伊勢神宮内宮の別宮である荒祭宮や、兵庫県西宮市の廣田神社の御祭神で、祓戸大神の1柱である瀬織津姫神と同神とされる。
鎮座後は、南北朝の動乱や戦国時代の合戦などにより衰微。江戸時代に入り、相馬中村藩3代藩主相馬忠胤の頃に吉田神祇官により再興されたという。
当社創建について、室町時代の正長元年(1428年)との説も。また『奥相志』では、水神下鎮座の神社(つまり当社)は「天照皇太神外宮」と記載され、吉田兼連により勧請されたとする。
吉田兼連の勧請は、吉田神祇官による再興と混同された可能性がある。
元禄3年(1690年)4月、5代藩主相馬昌胤が当社に参拝した際、当社祠官に当社の由緒について、「この神社は吉田神祇官による勧請の神社か」と質問。
それに対して祠官はそうであると返答したが、昌胤は「それなのに神社の造りが粗い」と言い、造営を命じた。
昌胤は建築資材として、南部材を下賜したという。村々に協力を募って同年9月に造営が始まり、同年11月に新しい社殿が完成した。
翌元禄4年(1691年)の春、昌胤が再度参拝し、賽銭として300銅を納めた。その後数年で社殿は大破したが、古例に習い、村民の寄付により修繕が行われたという。
参道入口には、樹齢150年・樹高13.6メートルのヒイラギの古木がある。市の天然記念物に指定されている。
なお、南柚木字宮前には、同名の伊勢大御神、当社と区別するために、伊勢大御神上大神宮と呼ばれる神社が鎮座する。
二つの伊勢大御神は、近接しているにもかかわらず、南柚木が伊勢国に似ているとして創建されたという以外、あまり由緒を共有していないのも特徴。
【ご利益】
開運招福、厄災除け

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・福島県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、福島県に鎮座している神社の一覧
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伊勢大御神下大神宮(いせおおみかみ しもだいじんぐう)は、福島県南相馬市鹿島区南柚木水神下にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
鎌倉時代末期の元享元年(1321年)の創建と伝わる。
文保2年(1318年)、後の陸奥守・鎮守府将軍である北畠顕家の将となる結城宗広が、伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)に参籠した。
そこで鈴鹿家幸と出会い、神宮側に、この鈴鹿氏を奥州に招き、大神宮を分祀したい旨を伝え、了承されたという。
鈴鹿家幸は伊勢神宮長官従三位藤原家行の末子で、内宮と豊受大神宮(外宮)の争いに参加し、罪に問われていて、宗広の申し出は神宮側にとっても渡りに船だったようだ。
奥州に入った鈴鹿家幸が、当地の南柚木に至り、伊勢国五十鈴によく似ているということから、当地への分祀を進めたという。現在の神職家はこの家幸の子孫となる。
御祭神は天照大御神、天照大御神荒魂の撞賢木厳之御魂天疎向津比売命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)を祀る。
撞賢木厳之御魂天疎向津比売命は、伊勢神宮内宮の別宮である荒祭宮や、兵庫県西宮市の廣田神社の御祭神で、祓戸大神の1柱である瀬織津姫神と同神とされる。
鎮座後は、南北朝の動乱や戦国時代の合戦などにより衰微。江戸時代に入り、相馬中村藩3代藩主相馬忠胤の頃に吉田神祇官により再興されたという。
当社創建について、室町時代の正長元年(1428年)との説も。また『奥相志』では、水神下鎮座の神社(つまり当社)は「天照皇太神外宮」と記載され、吉田兼連により勧請されたとする。
吉田兼連の勧請は、吉田神祇官による再興と混同された可能性がある。
元禄3年(1690年)4月、5代藩主相馬昌胤が当社に参拝した際、当社祠官に当社の由緒について、「この神社は吉田神祇官による勧請の神社か」と質問。
それに対して祠官はそうであると返答したが、昌胤は「それなのに神社の造りが粗い」と言い、造営を命じた。
昌胤は建築資材として、南部材を下賜したという。村々に協力を募って同年9月に造営が始まり、同年11月に新しい社殿が完成した。
翌元禄4年(1691年)の春、昌胤が再度参拝し、賽銭として300銅を納めた。その後数年で社殿は大破したが、古例に習い、村民の寄付により修繕が行われたという。
参道入口には、樹齢150年・樹高13.6メートルのヒイラギの古木がある。市の天然記念物に指定されている。
なお、南柚木字宮前には、同名の伊勢大御神、当社と区別するために、伊勢大御神上大神宮と呼ばれる神社が鎮座する。
二つの伊勢大御神は、近接しているにもかかわらず、南柚木が伊勢国に似ているとして創建されたという以外、あまり由緒を共有していないのも特徴。
【ご利益】
開運招福、厄災除け

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