道陸神山・猿田彦命の霊示を受けた日本武尊が皇孫を奉斎、式内
[住所]福島県南相馬市鹿島区上栃窪宮下35
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冠嶺神社(さかみねじんじゃ)は、福島県南相馬市鹿島区にある神社。上栃窪冠嶺神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「冠嶺神社(陸奥国・行方郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
由緒によれば、第12代景行天皇の時代、日本武尊が東夷征伐の勅命を受けて奥州に到来。
その時、地主神である猿田彦命より霊示があり、皇御孫尊(天津彦火邇邇芸命)を勧請して17日間祭祀を行った。
陣を布いた山は四方を川に囲まれており、日本武尊は地の利を生かして夷賊を倒して無事平定を進めることができたという。
地主神である猿田彦命は道祖神であり、道陸神とも呼ばれていた。当社が勧請された山は、道陸神の霊験があった山のため道陸神山(現 堂六神山と名付けられたという。
道陸神山の南麓に天の真名井の水をもって「真野の池」という水場を設け、冠嶺神の御手洗とした。真野川の名前はこの「真野の池」にちなむと伝わる。
また、真野川の上流には「立石」という奇石があり、猿田彦命が降臨し鎮座した場所だと伝わる。
平安時代の永承年間(1046年-1053年)、鳳輦を持って天下泰平を祈る儀式が行われるなどしたが、その後に前九年の役など戦乱が起きたため、神領社地は没収され、荒廃して小祠が建つのみとなった。
鎌倉時代、後堀河天皇(在位:1221年-1232年)の頃、氏子の志願によって社殿を里に立て、寛喜2年(1230年)4月8日に道陸神山から現在地へ遷座した。
その後、氏子の要望により、浪江町の苕野神社の分霊社である飯舘村の綿津見神社から「八龍大明神」と呼ばれる闇淤加美神を相殿神として合祀した。
そのため社号を八龍神祠とし、郡民から「八龍大明神」と呼ばれるようになったという。それ以降、3柱の御祭神を奉斎するようになり、浜下り神事も行われるようになった。
浜下り神事は7月7日に神輿を出御し、夜に角川原地区の熊木明神社に安置。明朝に現在の南海老地区の浜に降りて、天下泰平・五穀豊穣などを祈願し、還幸したという。
文政2年(1819年)の郡内式内社調査により、八龍神祠と呼ばれた当社が式内社「冠嶺神社」の論社とされ、原町区信田沢の同名神社の少彦名命を勧請したとも。
現在の御祭神は、少彦名命と天津彦火々出見命。ただし、由緒から見れば、天津彦火邇邇芸命・八龍大明神が含まれなければおかしい。
なお、当社に伝わる天津彦火邇邇芸命・天津彦火々出見命の御神体はどちらも「騎馬の尊像」であるとされる。
拝殿・幣殿・本殿の社殿の他、いくつかの石祠や境内社がある。境内の鎮守の森は「冠嶺神社の樹林一括」として市の天然記念物に指定されている。
例祭は4月8日。なお、式内社「冠嶺神社」の論社は他に、先の原町区信田沢の同名神社。
【ご利益】
天下泰平・武運長久・五穀豊穣・万民安全など

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『延喜式神名帳』にある「冠嶺神社(陸奥国・行方郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
由緒によれば、第12代景行天皇の時代、日本武尊が東夷征伐の勅命を受けて奥州に到来。
その時、地主神である猿田彦命より霊示があり、皇御孫尊(天津彦火邇邇芸命)を勧請して17日間祭祀を行った。
陣を布いた山は四方を川に囲まれており、日本武尊は地の利を生かして夷賊を倒して無事平定を進めることができたという。
地主神である猿田彦命は道祖神であり、道陸神とも呼ばれていた。当社が勧請された山は、道陸神の霊験があった山のため道陸神山(現 堂六神山と名付けられたという。
道陸神山の南麓に天の真名井の水をもって「真野の池」という水場を設け、冠嶺神の御手洗とした。真野川の名前はこの「真野の池」にちなむと伝わる。
また、真野川の上流には「立石」という奇石があり、猿田彦命が降臨し鎮座した場所だと伝わる。
平安時代の永承年間(1046年-1053年)、鳳輦を持って天下泰平を祈る儀式が行われるなどしたが、その後に前九年の役など戦乱が起きたため、神領社地は没収され、荒廃して小祠が建つのみとなった。
鎌倉時代、後堀河天皇(在位:1221年-1232年)の頃、氏子の志願によって社殿を里に立て、寛喜2年(1230年)4月8日に道陸神山から現在地へ遷座した。
その後、氏子の要望により、浪江町の苕野神社の分霊社である飯舘村の綿津見神社から「八龍大明神」と呼ばれる闇淤加美神を相殿神として合祀した。
そのため社号を八龍神祠とし、郡民から「八龍大明神」と呼ばれるようになったという。それ以降、3柱の御祭神を奉斎するようになり、浜下り神事も行われるようになった。
浜下り神事は7月7日に神輿を出御し、夜に角川原地区の熊木明神社に安置。明朝に現在の南海老地区の浜に降りて、天下泰平・五穀豊穣などを祈願し、還幸したという。
文政2年(1819年)の郡内式内社調査により、八龍神祠と呼ばれた当社が式内社「冠嶺神社」の論社とされ、原町区信田沢の同名神社の少彦名命を勧請したとも。
現在の御祭神は、少彦名命と天津彦火々出見命。ただし、由緒から見れば、天津彦火邇邇芸命・八龍大明神が含まれなければおかしい。
なお、当社に伝わる天津彦火邇邇芸命・天津彦火々出見命の御神体はどちらも「騎馬の尊像」であるとされる。
拝殿・幣殿・本殿の社殿の他、いくつかの石祠や境内社がある。境内の鎮守の森は「冠嶺神社の樹林一括」として市の天然記念物に指定されている。
例祭は4月8日。なお、式内社「冠嶺神社」の論社は他に、先の原町区信田沢の同名神社。
【ご利益】
天下泰平・武運長久・五穀豊穣・万民安全など

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