古代に多賀大社を勧請、中世に鹽竈神社に合祀、近世は神明神社に
[住所]宮城県多賀城市高崎1-14-13
[電話]022-362-0732
多賀神社(たがじんじゃ)は、宮城県多賀城市高崎にある神社。高崎多賀神社とも。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「多賀神社(陸奥国・宮城郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
古代に多賀城に赴任した陸奥国司や開拓民が崇敬していた近江国の多賀大社を遷祀したものが起源とされる。
式内社「多賀神社」は、平安時代の延暦15年(796年)に朝廷より従五位下の神階を受けた。その後、多賀城の衰退とともに神社も衰退して所在不明となった。
いずれかの時期に鹽竈神社に合祀され、そのため、現在の御祭神は経津主神・武甕槌神となっている。
しかし、多賀大社の勧請であれば、伊弉諾尊と伊弉冉尊の2柱とするべきではないか、と、宮城県神社庁では指摘している。例祭は4月15日。
江戸時代になると、地元では多賀城時代の寺の跡と伝え、塔跡に神明社(天照皇大神)という社を祀っていた。
延享2年(1745年)の『塩竃社記』が、礎石跡を昔の大社の跡地と推定した。いつの頃かこの神明社が現社号を名乗るようになった。
明治5年(1872年)9月、村社に列した。その後、留ヶ谷の神明社と天神社(菅原道真)、東田中の志引神社(久那止神)を合祀した。
社殿は多賀城廃寺跡の東塔基壇上に鎮座していたが、昭和40年(1965年)に多賀城廃寺が国の特別史跡に指定されたのに伴い、現在地に遷宮した。
社殿は平成13年(2001年)に改築された。
なお、式内社「多賀神社」の論社は他に、市内市川の陸奥総社宮、同じく市川の多賀神社、浮島の浮島神社がある。
【ご利益】
平穏安寧、地域安全、武運長久・勝運

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・宮城県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、宮城県に鎮座している神社の一覧
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多賀神社(たがじんじゃ)は、宮城県多賀城市高崎にある神社。高崎多賀神社とも。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「多賀神社(陸奥国・宮城郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
古代に多賀城に赴任した陸奥国司や開拓民が崇敬していた近江国の多賀大社を遷祀したものが起源とされる。
式内社「多賀神社」は、平安時代の延暦15年(796年)に朝廷より従五位下の神階を受けた。その後、多賀城の衰退とともに神社も衰退して所在不明となった。
いずれかの時期に鹽竈神社に合祀され、そのため、現在の御祭神は経津主神・武甕槌神となっている。
しかし、多賀大社の勧請であれば、伊弉諾尊と伊弉冉尊の2柱とするべきではないか、と、宮城県神社庁では指摘している。例祭は4月15日。
江戸時代になると、地元では多賀城時代の寺の跡と伝え、塔跡に神明社(天照皇大神)という社を祀っていた。
延享2年(1745年)の『塩竃社記』が、礎石跡を昔の大社の跡地と推定した。いつの頃かこの神明社が現社号を名乗るようになった。
明治5年(1872年)9月、村社に列した。その後、留ヶ谷の神明社と天神社(菅原道真)、東田中の志引神社(久那止神)を合祀した。
社殿は多賀城廃寺跡の東塔基壇上に鎮座していたが、昭和40年(1965年)に多賀城廃寺が国の特別史跡に指定されたのに伴い、現在地に遷宮した。
社殿は平成13年(2001年)に改築された。
なお、式内社「多賀神社」の論社は他に、市内市川の陸奥総社宮、同じく市川の多賀神社、浮島の浮島神社がある。
【ご利益】
平穏安寧、地域安全、武運長久・勝運

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