日本武尊や雄略期に下賜された祭祀田の地名などが残る式内古社
[住所]宮城県名取市高柳字下西50
[電話]022-385-0804
多賀神社(たがじんじゃ)は、宮城県名取市高柳にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「多加神社(陸奥国・名取郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
第12代景行天皇28年2月に日本武尊による東征の際に勧請されたと伝わる。伊弉諾尊と伊弉冉尊を主祭神として祀る。
第21代雄略天皇2年(458年)11月に祭祀田として圭田58束を奉り祭礼を行ったという。
ここまでの由緒は、仙台市太白区富沢の多賀神社とおよそ共通する。この両社が、式内社「多加神社」の論社である。
ただし、当社の東には、雄略天皇2年に賜った祭祀田にちなむ「圭田」という地名が残されている。
由緒によれば、日本武尊が東征のために奥州へやってきた時、相次ぐ戦いや長旅によって重い病気を患った。
その時、柳の生い茂る温暖な地で祭壇や祠を設けて病気平癒を祈願したところ回復し、無事に大和の地へ帰ることができたという。
その病気平癒や国家安寧を祈願した祠が当社の始まりと伝わる。
当社の北には日本武尊が戦勝祈願のための祭壇を設けた場所「皇壇原(こうだんがはら)」が今も残る。鎮座地名の高柳もこの由緒にちなむ。
また、当社の南東970メートルの民家敷地内には日本武尊の御神霊を祀る白鳥神社が鎮座している。
藩主や陸奥国守からも尊崇を集め、明治4年(1871年)2月には郷社に列した。
富沢の多賀神社との間での式内比定論争がたびたび起こったという。『新撰陸奥風土記』には下記のようにある。
多賀神社は富沢村にあり今は高柳村に鎮座するという。しかし、高柳の多賀神社は往古は「若宮八幡」と呼ばれていたものを多賀神社へ改称したものである
そのためか、明治22年(1889年)の論争においては、富沢が式内社に認定され、当社はその社領のあった地とされた。富沢が西多賀、高柳が東多賀とも。
その後幣帛供進社に指定された。現在では、近隣の神社の御祭神である熊野加夫呂櫛御食奴神・天照皇大神・速須佐男命・応神天皇を合祀している。例祭は5月1日。
境内には、社殿として拝殿・幣殿・流造の本殿があり、御神門、社務所がある。
【ご利益】
病気平癒・健康長寿・交通安全・旅行安全・厄除け
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多賀神社(たがじんじゃ)は、宮城県名取市高柳にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「多加神社(陸奥国・名取郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
第12代景行天皇28年2月に日本武尊による東征の際に勧請されたと伝わる。伊弉諾尊と伊弉冉尊を主祭神として祀る。
第21代雄略天皇2年(458年)11月に祭祀田として圭田58束を奉り祭礼を行ったという。
ここまでの由緒は、仙台市太白区富沢の多賀神社とおよそ共通する。この両社が、式内社「多加神社」の論社である。
ただし、当社の東には、雄略天皇2年に賜った祭祀田にちなむ「圭田」という地名が残されている。
由緒によれば、日本武尊が東征のために奥州へやってきた時、相次ぐ戦いや長旅によって重い病気を患った。
その時、柳の生い茂る温暖な地で祭壇や祠を設けて病気平癒を祈願したところ回復し、無事に大和の地へ帰ることができたという。
その病気平癒や国家安寧を祈願した祠が当社の始まりと伝わる。
当社の北には日本武尊が戦勝祈願のための祭壇を設けた場所「皇壇原(こうだんがはら)」が今も残る。鎮座地名の高柳もこの由緒にちなむ。
また、当社の南東970メートルの民家敷地内には日本武尊の御神霊を祀る白鳥神社が鎮座している。
藩主や陸奥国守からも尊崇を集め、明治4年(1871年)2月には郷社に列した。
富沢の多賀神社との間での式内比定論争がたびたび起こったという。『新撰陸奥風土記』には下記のようにある。
多賀神社は富沢村にあり今は高柳村に鎮座するという。しかし、高柳の多賀神社は往古は「若宮八幡」と呼ばれていたものを多賀神社へ改称したものである
そのためか、明治22年(1889年)の論争においては、富沢が式内社に認定され、当社はその社領のあった地とされた。富沢が西多賀、高柳が東多賀とも。
その後幣帛供進社に指定された。現在では、近隣の神社の御祭神である熊野加夫呂櫛御食奴神・天照皇大神・速須佐男命・応神天皇を合祀している。例祭は5月1日。
境内には、社殿として拝殿・幣殿・流造の本殿があり、御神門、社務所がある。
【ご利益】
病気平癒・健康長寿・交通安全・旅行安全・厄除け
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