天正元年の創建、岩堰用水路を完成させた梅津政景を合祀、例祭は5月3日
[住所]秋田県能代市二ツ井町字山根72(下野家後)
[電話]0185-77-2337
岩関神社(いわせきじんじゃ)は、秋田県能代市二ツ井町にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
由緒は不詳ながら、戦国時代の天正元年(1573年)の創建と伝わる。
明治5年(1872年)、村社に列す。明治43年(1910年)8月11日、字上山崎山崎神社・字後山愛宕神社・字後山塚ノ岱神明社・字山根村社岩関ノ神社の境内社を合祀。
元和年間(1615年-1624年)に岩堰用水路の開削工事を指揮した梅津政景の偉業を称え、御祭神として合祀された。
御祭神は、天照皇大御神・加具土乃命・応神天皇・武速須佐雄乃命・大名持乃命・梅津政景公。
梅津政景(うめづまさかげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将で、出羽国久保田藩家老。慶長20年(1615年)には大坂夏の陣にも参陣。
政景が知行地として与えられた比井野村(現 能代市二ツ井町)は、至近を流れる米代川に対し、高台にあるため水利が悪く、江戸初期は戸数15-16戸の寒村だった。
そこで政景は、隣の藤琴村矢坂の藤琴川から延々用水路を引き、新田を拓いた。用水路が容易につくれない山岳部は、岩をくりぬきトンネルを掘って繋いだ。
これが岩堰用水路であり、明治期に改修を受けた上で現在も使われている。
新田ができたため、比井野村は人口が増え、石数も飛躍的に伸びた。政景は大明神として現在も尊敬されている。
寛永10年(1633年)、政景が仕えた、佐竹氏19代当主で、出羽久保田藩(秋田藩)初代藩主佐竹義宣が死去。その2ヶ月後、政景も後を追うように死去した。
政景が書いた『梅津政景日記』は、久保田藩の藩政や当時の武士・庶民の生活を現代に伝える貴重な史料となっている。
例祭は5月3日。岩堰用水路への感謝と、梅津政景の偉業が称えられる。重さ1トン近い神輿を担ぎ、町内を練り歩く。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、事業成功、開運招福

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岩関神社(いわせきじんじゃ)は、秋田県能代市二ツ井町にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
由緒は不詳ながら、戦国時代の天正元年(1573年)の創建と伝わる。
明治5年(1872年)、村社に列す。明治43年(1910年)8月11日、字上山崎山崎神社・字後山愛宕神社・字後山塚ノ岱神明社・字山根村社岩関ノ神社の境内社を合祀。
元和年間(1615年-1624年)に岩堰用水路の開削工事を指揮した梅津政景の偉業を称え、御祭神として合祀された。
御祭神は、天照皇大御神・加具土乃命・応神天皇・武速須佐雄乃命・大名持乃命・梅津政景公。
梅津政景(うめづまさかげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将で、出羽国久保田藩家老。慶長20年(1615年)には大坂夏の陣にも参陣。
政景が知行地として与えられた比井野村(現 能代市二ツ井町)は、至近を流れる米代川に対し、高台にあるため水利が悪く、江戸初期は戸数15-16戸の寒村だった。
そこで政景は、隣の藤琴村矢坂の藤琴川から延々用水路を引き、新田を拓いた。用水路が容易につくれない山岳部は、岩をくりぬきトンネルを掘って繋いだ。
これが岩堰用水路であり、明治期に改修を受けた上で現在も使われている。
新田ができたため、比井野村は人口が増え、石数も飛躍的に伸びた。政景は大明神として現在も尊敬されている。
寛永10年(1633年)、政景が仕えた、佐竹氏19代当主で、出羽久保田藩(秋田藩)初代藩主佐竹義宣が死去。その2ヶ月後、政景も後を追うように死去した。
政景が書いた『梅津政景日記』は、久保田藩の藩政や当時の武士・庶民の生活を現代に伝える貴重な史料となっている。
例祭は5月3日。岩堰用水路への感謝と、梅津政景の偉業が称えられる。重さ1トン近い神輿を担ぎ、町内を練り歩く。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、事業成功、開運招福

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