坂上田村麻呂が創建した神宮寺岳の里宮、9月に旗背負いと奴振り
[住所]秋田県大仙市神宮寺字神宮寺19-1
[電話]0187-72-2530

八幡神社(はちまんじんじゃ)は、秋田県大仙市神宮寺にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 出羽国 山本郡「副川神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社

社伝によれば、平安時代の大同2年(806年)、征夷大将軍坂上田村麻呂が男鹿半島「寒風山」に住む大猛丸を征伐する際、当地で兵を募り、戦勝を祈願したという。

首尾よく戦勝したその帰路に、報恩として社殿を建立したのが始まり。御祭神は、保牟田和気命。神宮寺八幡神社とも。

雄物川をはさみ、南東1キロにある神宮寺岳の山頂に鎮座する嶽六所神社の里宮と位置付けられた。

嶽六所神社が式内社「副川神社」の論社であり、当社がその後に創建されたという。

しかし、もともと神宮寺岳自体を御神体山としていた可能性があり、当社から山を拝するのが本来の姿であって、当社こそが式内社「副川神社」ではないかとの指摘がある。

その後、一時衰微したが、寛治3年(1089年)に源八幡太郎義家が再建、鎌倉時代の建久3年(1192年)に源頼朝が再建とも。

どちらかの再建の際に奉納された「八幡大菩薩」大旗一流が現存し、現在は製作年代不明ながら市指定有形文化財。

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての官人である中原親能や、鎌倉時代初期の武将である宮道国平の名入りの棟札が現存しているという。

清和源氏の流れを汲む佐竹氏の入封後も、佐竹氏に篤く崇敬され、藩主が江戸との往復時の途中に必ず参拝したという。

現在の社殿は江戸時代中期の宝永3年(1706年)の再建だが、安永年間(1772年-1780年)の大洪水により現在地に遷座したという。

当地の地名である神宮寺は、当社の別当である真言宗の去河山神宮寺華蔵院に由来している。

明治4年(1871年)に郷社に列し、明治12年(1879年)に幣殿・拝殿が建立された。明治14年(1881年)10月、県社に昇格した。

Wikipediaによれば、当社は郷社にとどまっているようにみられ、また別の資料でも郷社としているものがあるが、ここでは秋田県神社庁を参考とした。

明治39年(1906年)に神饌幣帛料供進神社に指定され、大正3年(1914年)には愛宕神社(加句槌命)を合祀する。

平成元年(1989年)3月に、社殿改修奉賛会が設立され、大改修工事を施行、同年11月に完成した。

例祭は9月15日。大旗背負神事がある。旗背負いとも。江戸時代末期にこの地方に疫病が流行した時、地域の苦難を1人で背負うために始めたのが起源とされている。

雄物川の玉石を詰めた重さ約30キロのかます6俵と、長さ8メートルののぼり旗をセンバと呼ばれる背負子に括り付け、奉仕会の若者が交代しながら町を練り歩き、当社に奉納する。

旗背負いのあとに、享保7年(1722年)から伝わる大名行列が行われる。いわゆる奴振りで、顔にひげやまゆを墨で描いたひょうきん者たちが「ヨーイヤ、ヨイ」の掛け声に合わせ、体を左右に振りながら、江戸絵巻を展開する。

境内社に、神明社・天神社・稲荷社・市杵島神社がある。

なお、式内社「副川神社」の論社は、嶽六所神社の他に、南秋田郡八郎潟町浦大町の副川神社と、副川神社の古社地とされる秋田市添川の添川神明社がある。

【ご利益】
厄災除け、病魔退散、無病息災、地域安全
八幡神社(大仙市) - 坂上田村麻呂が創建した神宮寺岳の里宮、9月に旗背負いと奴振り
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