高岳山鎮座、もう一つの日本最北の式内社、江戸中期に再興、秋田藩三国社
[住所]秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町字小坂45
[電話]018-852-9238
副川神社(そえがわじんじゃ)は、秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町にある神社。御祭神は、天照大御神・豊受大神・素盞嗚大神。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 出羽国 山本郡「副川神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
当初は、大仙市の神宮寺岳山頂に祀られていたが、佐竹氏が久保田城に治府を置き、北門守護のため標高221メートルの高岳山へ遷したものという。
当社の案内には、「日本最北の式内社」とある。陸奥国にも、「日本最北」と称する式内社として志賀理和氣神社が存在する。
大仙市が当社の古社地であるとすると、志賀理和氣神社の方が最北となり、現社地で考えると、当社が最北となる。
高岳山の山体は、森山火山岩類の普通輝石、黒雲母、角閃石、石英安山岩からなる。
山頂の展望台からは躍進八郎潟町が一望に見下ろし、南方に湖東平野、西方に寒風山、新政大潟村が眺望できる。
山腹の第三の鳥居、通称「中の鳥居」の石灯籠は、高さ約2.5メートルの永久常夜灯で、かつては八郎潟を往来する船にとって灯台の役目を果たしたという。
中世の詳細な由緒は伝わっていない、近世、江戸時代中期の正徳4年(1714年)に復興の記録がある。江戸時代は「牛頭天王」と称していた。
この復興は、秋田藩主佐竹義格が藩内古社の復興を行った際に式内社認定されたもので、以後、秋田藩三国社として江戸時代を通じて30石の社領を有した。
明治5年(1872年)に郷社に列し、明治40年(1907年)に神饌幣帛料供進神社に指定された。例祭は7月1日。本殿は春日造で、幣殿・拝殿・参籠殿がある。
なお、式内社「副川神社」の論社は他に、当社の古社地ともされる秋田県秋田市の添川神明社、大仙市神宮寺の嶽六所神社、嶽六所神社の里宮である八幡神社がある。
【ご利益】
厄災除け、方除け、病魔退散、開運招福
【関連記事】
・秋田県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、秋田県に鎮座している神社の一覧
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副川神社(そえがわじんじゃ)は、秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町にある神社。御祭神は、天照大御神・豊受大神・素盞嗚大神。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 出羽国 山本郡「副川神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
当初は、大仙市の神宮寺岳山頂に祀られていたが、佐竹氏が久保田城に治府を置き、北門守護のため標高221メートルの高岳山へ遷したものという。
当社の案内には、「日本最北の式内社」とある。陸奥国にも、「日本最北」と称する式内社として志賀理和氣神社が存在する。
大仙市が当社の古社地であるとすると、志賀理和氣神社の方が最北となり、現社地で考えると、当社が最北となる。
高岳山の山体は、森山火山岩類の普通輝石、黒雲母、角閃石、石英安山岩からなる。
山頂の展望台からは躍進八郎潟町が一望に見下ろし、南方に湖東平野、西方に寒風山、新政大潟村が眺望できる。
山腹の第三の鳥居、通称「中の鳥居」の石灯籠は、高さ約2.5メートルの永久常夜灯で、かつては八郎潟を往来する船にとって灯台の役目を果たしたという。
中世の詳細な由緒は伝わっていない、近世、江戸時代中期の正徳4年(1714年)に復興の記録がある。江戸時代は「牛頭天王」と称していた。
この復興は、秋田藩主佐竹義格が藩内古社の復興を行った際に式内社認定されたもので、以後、秋田藩三国社として江戸時代を通じて30石の社領を有した。
明治5年(1872年)に郷社に列し、明治40年(1907年)に神饌幣帛料供進神社に指定された。例祭は7月1日。本殿は春日造で、幣殿・拝殿・参籠殿がある。
なお、式内社「副川神社」の論社は他に、当社の古社地ともされる秋田県秋田市の添川神明社、大仙市神宮寺の嶽六所神社、嶽六所神社の里宮である八幡神社がある。
【ご利益】
厄災除け、方除け、病魔退散、開運招福
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