だんぶり長者の善行を称えて創祀、奈良期の再建で大日堂舞楽が伝わる
[住所]秋田県鹿角市八幡平堂の上16
[電話]0186-32-2742
大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ)は、秋田県鹿角市八幡平にある神社。御朱印の有無は不明。
社伝によれば、第26代継体天皇の時代、高徳により醴泉を授かっただんぶり長者の善行を伝えようと、勅願により大日示現社が創建された。
奈良時代の養老2年(718年)、元正天皇の代、この地に伝わるだんぶり長者の物語を奏聞し、養老への改元との符牒を認めたことから、行基を下向させ、大日社を再建した。
この時、行基に随行した工匠・音楽師などが、里人に舞楽を伝授したのが、現在の大日堂舞楽であるという。
平安時代末期の寿永2年(1183年)、鎮守府将軍藤原秀衡の命により、堂社の大修理が加えられた。
また、戦国時代の文明18年(1486年)、南部家15代南部政盛の命で大日堂を修復した棟札が、記録上最古である。
江戸時代になり、元和2年(1616年)、27代当主南部利直から、社領80石あまりを寄進され、明治維新まで85石の社領を1里四方の山林の社地によって維持した。
寛文5年(1665年)大晦日の火災で大日堂と尊像を焼失したが、29代当主南部重信によりただちに再建され、以後南部家崇敬、八大社の一つとして、社殿の修理が藩主の命により行われた。
昭和24年(1949年)、社殿が全焼し、昭和26年(1951年)に拝殿はもとの9間四面の土台に建立し、幣殿・本殿を増築して、昭和31年(1956年)に竣工した。
御祭神は、後世の合祀を含め、主祭神として天照皇大神を祀り、菟皇子命・吉祥姫命・大己貴命・少名彦命・豊宇気毘売命・猿田彦命・天宇受売命・大鞆和気命・素盞嗚尊・崇徳天皇・伊弉册尊・保食神を合祀する。
菟皇子命(うさぎのみこのみこと)は不詳だが、だんぶり長者の伝説との関連も考えづらく、似た神名としては菟道稚郎子か。
吉祥姫命はだんぶり長者の娘で、継体天皇の妃とされる。『古事記』や国史などでは確認できない。死後は当地に埋葬されたと伝わり、当社にあった大イチョウの近くが墓地だという。
例祭は1月2日・4月28日。1月2日の際に国の重要無形民俗文化財「大日堂舞楽」が奉納される。一部は、年明け前に天照皇御祖神社でも奉納される。
境内社に大己貴神社がある。
だんぶり長者について
だんぶり長者(だんぶりちょうじゃ)は秋田県と岩手県にまたがって残る伝説である。米代川の名前の由来や、当社の縁起を伝えている。
昔、出羽国の独鈷(とっこ)村(現 秋田県大館市比内町独鈷)に気立ての良い娘がいた。
ある夜、娘の夢に老人が現れ「川上に行けば夫となる男に出合うだろう」と告げる。お告げ通り、娘は川上の小豆沢(現 鹿角市八幡平小豆沢)で一人の男に出合い、夫婦となった。
貧しいながら仲睦まじく暮らしていたある年の正月、また老人が夢に現れ「もっと川上に住めば徳のある人になるだろう」と告げる。
夫婦は川をさかのぼり現在の米代川の源流に近い田山村(現 岩手県八幡平市田山)に移り住み、よく働いた。
ある日、夫が野良仕事に疲れうとうとしていると、一匹のだんぶり(とんぼ)が飛んできて、夫の口に尻尾で2・3度触れた。
目を覚ました夫は、妻に「不思議なうまい酒を飲んだ」と話し、二人でだんぶりの後を追った。そして、先の岩陰に酒が湧く泉を発見する。酒は尽きることがなく、飲めばどんな病気も癒された。
夫婦はこの泉で金持ちとなり、多くの人が夫婦の家に集まってきた。人々が朝夕に研ぐ米の汁で川が白くなり、いつしか川は「米代川」と呼ばれるようになった。
夫婦には秀子という一人娘がいた。優しく美しい乙女に成長し、やがて継体天皇に仕えて、吉祥姫と呼ばれた。
夫婦も天皇から「長者」の称号を与えられ、「だんぶり長者」として人々に慕われた。
年月が過ぎ、夫婦がこの世を去ると、酒泉はただの泉になった。両親の死を悲しんだ吉祥姫は都から戻り、小豆沢の地に当社を建てて供養したという。
この姫も世を去ると、村人達は姫を当社の近くに埋葬し、銀杏の木を植えた。これが、大日霊貴神社の境内にあった大銀杏と言われている。
【ご利益】
病気平癒、開運招福、金運・財運

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[電話]0186-32-2742
大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ)は、秋田県鹿角市八幡平にある神社。御朱印の有無は不明。
社伝によれば、第26代継体天皇の時代、高徳により醴泉を授かっただんぶり長者の善行を伝えようと、勅願により大日示現社が創建された。
奈良時代の養老2年(718年)、元正天皇の代、この地に伝わるだんぶり長者の物語を奏聞し、養老への改元との符牒を認めたことから、行基を下向させ、大日社を再建した。
この時、行基に随行した工匠・音楽師などが、里人に舞楽を伝授したのが、現在の大日堂舞楽であるという。
平安時代末期の寿永2年(1183年)、鎮守府将軍藤原秀衡の命により、堂社の大修理が加えられた。
また、戦国時代の文明18年(1486年)、南部家15代南部政盛の命で大日堂を修復した棟札が、記録上最古である。
江戸時代になり、元和2年(1616年)、27代当主南部利直から、社領80石あまりを寄進され、明治維新まで85石の社領を1里四方の山林の社地によって維持した。
寛文5年(1665年)大晦日の火災で大日堂と尊像を焼失したが、29代当主南部重信によりただちに再建され、以後南部家崇敬、八大社の一つとして、社殿の修理が藩主の命により行われた。
昭和24年(1949年)、社殿が全焼し、昭和26年(1951年)に拝殿はもとの9間四面の土台に建立し、幣殿・本殿を増築して、昭和31年(1956年)に竣工した。
御祭神は、後世の合祀を含め、主祭神として天照皇大神を祀り、菟皇子命・吉祥姫命・大己貴命・少名彦命・豊宇気毘売命・猿田彦命・天宇受売命・大鞆和気命・素盞嗚尊・崇徳天皇・伊弉册尊・保食神を合祀する。
菟皇子命(うさぎのみこのみこと)は不詳だが、だんぶり長者の伝説との関連も考えづらく、似た神名としては菟道稚郎子か。
吉祥姫命はだんぶり長者の娘で、継体天皇の妃とされる。『古事記』や国史などでは確認できない。死後は当地に埋葬されたと伝わり、当社にあった大イチョウの近くが墓地だという。
例祭は1月2日・4月28日。1月2日の際に国の重要無形民俗文化財「大日堂舞楽」が奉納される。一部は、年明け前に天照皇御祖神社でも奉納される。
境内社に大己貴神社がある。
だんぶり長者について
だんぶり長者(だんぶりちょうじゃ)は秋田県と岩手県にまたがって残る伝説である。米代川の名前の由来や、当社の縁起を伝えている。
昔、出羽国の独鈷(とっこ)村(現 秋田県大館市比内町独鈷)に気立ての良い娘がいた。
ある夜、娘の夢に老人が現れ「川上に行けば夫となる男に出合うだろう」と告げる。お告げ通り、娘は川上の小豆沢(現 鹿角市八幡平小豆沢)で一人の男に出合い、夫婦となった。
貧しいながら仲睦まじく暮らしていたある年の正月、また老人が夢に現れ「もっと川上に住めば徳のある人になるだろう」と告げる。
夫婦は川をさかのぼり現在の米代川の源流に近い田山村(現 岩手県八幡平市田山)に移り住み、よく働いた。
ある日、夫が野良仕事に疲れうとうとしていると、一匹のだんぶり(とんぼ)が飛んできて、夫の口に尻尾で2・3度触れた。
目を覚ました夫は、妻に「不思議なうまい酒を飲んだ」と話し、二人でだんぶりの後を追った。そして、先の岩陰に酒が湧く泉を発見する。酒は尽きることがなく、飲めばどんな病気も癒された。
夫婦はこの泉で金持ちとなり、多くの人が夫婦の家に集まってきた。人々が朝夕に研ぐ米の汁で川が白くなり、いつしか川は「米代川」と呼ばれるようになった。
夫婦には秀子という一人娘がいた。優しく美しい乙女に成長し、やがて継体天皇に仕えて、吉祥姫と呼ばれた。
夫婦も天皇から「長者」の称号を与えられ、「だんぶり長者」として人々に慕われた。
年月が過ぎ、夫婦がこの世を去ると、酒泉はただの泉になった。両親の死を悲しんだ吉祥姫は都から戻り、小豆沢の地に当社を建てて供養したという。
この姫も世を去ると、村人達は姫を当社の近くに埋葬し、銀杏の木を植えた。これが、大日霊貴神社の境内にあった大銀杏と言われている。
【ご利益】
病気平癒、開運招福、金運・財運

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