弘法大師が奈良三輪を勧請、平安から江戸期の造営記録、讃岐式内
[住所]香川県さぬき市前山字道2451
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多和神社(たわじんじゃ)は、香川県さぬき市前山にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 讃岐国 寒川郡「多和神社」に比定される式内社(小社)の論社。
『寒川郡前山村多和神社由来遷宮控帳』によれば、平安時代の天長元年(824年)に大和国三輪神社より勧請されたのが始まり。
弘法大師空海及び藤原佐太夫政富の勧請と伝わる。御祭神は、大己貴命。ただし、境内石碑には手置帆負命の名も見える。
当社は山中にあるが、多和の「たわ」は、名詞で「山の鞍部」あるいは「峠」。動詞で「たわむ」、すなわち「しないまがる」「重みにたえかねて曲がる」の意で、立地と符合する。
式内社としては、元慶元年(877年)3月4日に従五位上に進み、永承4年(1049年)に多和神祠として仏舎利を賜った。
平安時代の延喜7年(907年)、治暦4年(1068年)、治承2年(1178年)、鎌倉時代の乾元元年(1302年)、戦国時代の永正2年(1505年)、文録2年(1593年)、江戸時代の寛永12年(1635年)、万治元年(1658年)、安永9年(1780年)に社殿の造営の記録が残る。
江戸時代には大田尾明神・多和大明神と称しており、別当は宝藏院末寺の神照寺。文政2年(1819年)には高松藩9代藩主松平頼恕が社地を寄進した。
寛文9年(1669年)2月5日に当地の大庄屋が実地調査し、当社が式内社を確認した。江戸期にを通じて、当社が式内社として認知されていた。
明治になって、激しい論争の末、内務省より志度の多和神社が式内に比定されたという。
現社殿は大正14年(1925年)10月に竣工したもの。現在は市内長尾名の宇佐神社の境外末社とも。
例祭は10月10日。境内社に伊勢神社・地神社がある。
なお、式内社「多和神社」の論社は、志度の同名神社の他、市内津田町鶴羽に鶴羽神社と大森神社がある。
【ご利益】
病気平癒、健康長寿、地域安全
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多和神社(たわじんじゃ)は、香川県さぬき市前山にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 讃岐国 寒川郡「多和神社」に比定される式内社(小社)の論社。
『寒川郡前山村多和神社由来遷宮控帳』によれば、平安時代の天長元年(824年)に大和国三輪神社より勧請されたのが始まり。
弘法大師空海及び藤原佐太夫政富の勧請と伝わる。御祭神は、大己貴命。ただし、境内石碑には手置帆負命の名も見える。
当社は山中にあるが、多和の「たわ」は、名詞で「山の鞍部」あるいは「峠」。動詞で「たわむ」、すなわち「しないまがる」「重みにたえかねて曲がる」の意で、立地と符合する。
式内社としては、元慶元年(877年)3月4日に従五位上に進み、永承4年(1049年)に多和神祠として仏舎利を賜った。
平安時代の延喜7年(907年)、治暦4年(1068年)、治承2年(1178年)、鎌倉時代の乾元元年(1302年)、戦国時代の永正2年(1505年)、文録2年(1593年)、江戸時代の寛永12年(1635年)、万治元年(1658年)、安永9年(1780年)に社殿の造営の記録が残る。
江戸時代には大田尾明神・多和大明神と称しており、別当は宝藏院末寺の神照寺。文政2年(1819年)には高松藩9代藩主松平頼恕が社地を寄進した。
寛文9年(1669年)2月5日に当地の大庄屋が実地調査し、当社が式内社を確認した。江戸期にを通じて、当社が式内社として認知されていた。
明治になって、激しい論争の末、内務省より志度の多和神社が式内に比定されたという。
現社殿は大正14年(1925年)10月に竣工したもの。現在は市内長尾名の宇佐神社の境外末社とも。
例祭は10月10日。境内社に伊勢神社・地神社がある。
なお、式内社「多和神社」の論社は、志度の同名神社の他、市内津田町鶴羽に鶴羽神社と大森神社がある。
【ご利益】
病気平癒、健康長寿、地域安全
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