稲積山に鎮座する「稲積さん」、藩主京極家が崇敬した式内社
[住所]香川県観音寺市高屋町稲積山2730
[電話]0875-24-3957
高屋神社(たかやじんじゃ)は、香川県観音寺市高屋町の稲積山にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 讃岐国 刈田郡「高屋神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
標高404メートルの稲積山の南麓に里宮としての遥拝所があり、中腹に中宮、山頂に上宮がある。
稲の神さんとして古くから親しまれ、上宮からは観音寺市が一望でき、眼下に2キロにわたる有明浜の海岸線が伸びている。
上宮までは、270段の急な幅広い石段が続く。その中段には、ゆるぎ石とよばれ、指で押しても動くが落ちない岩が鎮座している。
御祭神は、邇々杵命・保食命・咲夜比女命。『日本三代実録』に、貞観6年(864年)10月15日に「讃岐国正六位上高屋…従五位下」とある。
同じく貞観9年(867年)5月17日に、「授讃岐国正六位上高家神従五位下」とある。しかし、この高家神は当社ではなく、坂出市高屋町の高家神社のことだとされている。
当初稲積山頂にあったのを、江戸時代の初め、慶長5年(1600年)ごろに、中腹に移し、さらに江戸時代中期の宝暦11年(1760年)ごろに山麓に移した。
しかし、里人はその崇をおそれ、江戸時代後期の文政14年/天保元年(1831年)に山頂の旧地に再び本殿を造営。山の名をとり、稲積社とも呼んだ。
江戸時代には丸亀藩主京極家の崇敬が篤く、藩主寄進とされる扁額が残されているという。
また、京極家の船が沖を通る際、帆を降ろし船を停めて遥拝し、その後航行するのが習わしだったという。
近世には稲積明神、高稲積大明神と呼ばれ、今も「稲積さん」と親しまれている。明治5年(1872年)には郷社に列し、昭和11年(1936年)に県社に昇格した。
例祭は4月第2土・日曜日。
【ご利益】
海上安全・水難除け、交通安全、安産、五穀豊穣・商売繁盛

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[電話]0875-24-3957
高屋神社(たかやじんじゃ)は、香川県観音寺市高屋町の稲積山にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 讃岐国 刈田郡「高屋神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
標高404メートルの稲積山の南麓に里宮としての遥拝所があり、中腹に中宮、山頂に上宮がある。
稲の神さんとして古くから親しまれ、上宮からは観音寺市が一望でき、眼下に2キロにわたる有明浜の海岸線が伸びている。
上宮までは、270段の急な幅広い石段が続く。その中段には、ゆるぎ石とよばれ、指で押しても動くが落ちない岩が鎮座している。
御祭神は、邇々杵命・保食命・咲夜比女命。『日本三代実録』に、貞観6年(864年)10月15日に「讃岐国正六位上高屋…従五位下」とある。
同じく貞観9年(867年)5月17日に、「授讃岐国正六位上高家神従五位下」とある。しかし、この高家神は当社ではなく、坂出市高屋町の高家神社のことだとされている。
当初稲積山頂にあったのを、江戸時代の初め、慶長5年(1600年)ごろに、中腹に移し、さらに江戸時代中期の宝暦11年(1760年)ごろに山麓に移した。
しかし、里人はその崇をおそれ、江戸時代後期の文政14年/天保元年(1831年)に山頂の旧地に再び本殿を造営。山の名をとり、稲積社とも呼んだ。
江戸時代には丸亀藩主京極家の崇敬が篤く、藩主寄進とされる扁額が残されているという。
また、京極家の船が沖を通る際、帆を降ろし船を停めて遥拝し、その後航行するのが習わしだったという。
近世には稲積明神、高稲積大明神と呼ばれ、今も「稲積さん」と親しまれている。明治5年(1872年)には郷社に列し、昭和11年(1936年)に県社に昇格した。
例祭は4月第2土・日曜日。
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