小牛田名物「山の神まんじゅう」、四季の花々と本格的な日本庭園
[住所]宮城県遠田郡美里町牛飼斉ノ台37
[電話]0229-33-2082

山神社(やまのかみしゃ)は、宮城県遠田郡美里町にある神社。主祭神は木花佐久夜比売命。小牛田山神社とも。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。

平安時代末期、崇徳天皇の御代である永治元年(1141年)、摂津国の住人で、現宮司家の祖先である小山田清寧が家の守り神として勧請したのが始まり。

その後、清寧の後裔である浄円が元亀2年(1571年)に神璽(御神体)を奉じて、陸奥国遠田郡小牛田旧屋敷に移り住み、天正3年(1575年)には祠を建てて御神体を奉斎した。

江戸時代前期の寛文2年(1662年)、仙台藩により小牛田駅が造られ、南小牛田村の町割りが行われた際、旧屋敷地区から近くの南小牛田町屋敷地区に間口九間・奥行四間の社殿が造営され、遷座した。

御神体については、以下の伝承が残されている。
お経を霊場に納めるため諸国を行脚していた僧が観音様を背負ってやってきた。

僧は病にかかり、南小牛田町屋敷の伊藤家で世話になった。

回復したお礼に、僧は観音様を安産の神だと言って置いていった。

それが当社の御祭神である。
現在も南小牛田町屋敷の旧伊藤家の敷地には小牛田に勧請された時の当社の元宮が、大場家には神体の観音を納めた社殿が鎮座しているという。

元文元年(1736年)、村内で大火があり類焼するが、元文5年(1740年)には再建された。寛政4年(1792年)、社殿を改築、文化6年(1809年)には間口九間・奥行四間の社殿が造営された。

寛保3年(1743年)、陸奥仙台藩5代藩主伊達吉村による奉幣が行われ、延享2年(1745年)8月には藩士有馬内膳と小笠原三右衛門が参拝し奉幣した。

また、白石片倉家・亘理伊達家・角田石川家・岩出山伊達家・涌谷亘理家などで奥方の御産の際は家臣を代参させ、当社の安産祈願の神札を受けたという。

明治時代になり、当社は「小牛田の総氏神」とされた。

明治41年(1908年)8月、全焼91戸・185棟が焼失するという火事があり、当社社殿も全焼。しかし、御神体・御神鏡・御太鼓は社殿から運び出された。

その後、湧き水が流れる清浄な土地である「斉の台地区」の茶畑として利用されていた現在地に再遷座し、社殿が造営され、大正6年(1917年)12月に遷座祭が催行された。

明治41年(1908年)12月28日には下小牛田地区の無格社日枝神社(大山咋命)、明治42年(1909年)1月19日には郷社日枝神社、同年3月7日には本小牛田西原の村社八幡神社(誉田別命)と無格社神明社(天照大御神)を合祀した。

拝殿内部には、熊の剥製や男根型神体などが奉納されている。また、安産祈願の祈祷などは幣殿で行われている。

境内の神輿殿は、もとは神明社の社殿として薬師如来を祀っていたという。現在は「山神講」の神輿を安置している。

例祭は旧暦3月11日・12日が春季例大祭、旧暦10月11日・12日が秋季例大祭。1月14日にはどんと祭がある。

境内は季節ごとに桜やツツジ、紫陽花(アジサイ)などの花々を楽しむことができる。

社殿裏手には池を配した本格的な日本庭園があり、昭和初期と思われる社務所の建物と調和して、美しい姿を見せてくれる。

参道には小牛田名物の「山の神まんじゅう」の売店などがある。

【ご利益】
火防、酒造、子宝・安産・子育て
山神社(美里町) - 小牛田名物「山の神まんじゅう」、四季の花々と本格的な日本庭園
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