南北朝期創建、阿武隈川旧河口、川口神社に合祀、鮫乗り十一面観音
[住所]宮城県亘理郡亘理町荒浜字水倉
[電話]-
湊神社(みなとじんじゃ)は、宮城県亘理郡亘理町荒浜の高須賀地区にある神社。亘理湊神社とも。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建は南北朝時代の弘和3年/永徳3年(1383年)。鎮座地である高須賀地区は阿武隈川の旧河口にあたる。
太平洋から押し寄せる波と川からの土砂で流れが変化しやすく、浅瀬が多くできているため、船の出入りが困難で、遭難事故も多かったという。
そこで、亘理氏(武石氏)8代当主亘理行胤が、河口の安全を祈願して建立したと伝わる。主祭神は大海津見神。
明治5年(1872年)11月に村社に列したが、明治42年(1909年)3月23日に川口神社に合祀された。現在も川口神社の兼務神社。
御神体は鮫(サメ)の背中に乗る金色の十一面観音像と伝わる。ある年の大水の時、観音像が阿武隈川上流のどこかから流れてきた。
海に流れ出ようとしているこの観音像をサメが見つけ、多くのサメが協力して、この観音像を陸地に押し上げた。
嵐で海に流された漁師がサメに助けられたといわれ、その恩に報いるために村民は「サメに乗る十一面観音像」を御神体として当社を建立したという。
昭和初期までは、荒浜でもサメがよく獲れ、近くの市場だけでは置ききれず、阿武隈川の堤防までズラッとサメが並べられて競りが行われたという。
しかし、高須賀地区の人々は、サメやその肉を原料とするかまぼこなどの練り物を食べなかったという。
社殿は江戸時代末期のもので、一間社流造。前面・側面に高欄を設ける。向拝や社殿側面の蟇股にみられる江戸末期の彫刻が見事なことから、現在は町指定文化財。
当社の対岸の岩沼市寺島地区瀬崎には、住吉三神の一柱である表筒男神を祀る同名の神社があり、宝貴明神とも呼ばれている。両社は、阿武隈川を挟むかのように鎮座している。
【ご利益】
水難除け、海上安全、大漁満足
【関連記事】
・宮城県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、宮城県に鎮座している神社の一覧
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湊神社(みなとじんじゃ)は、宮城県亘理郡亘理町荒浜の高須賀地区にある神社。亘理湊神社とも。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建は南北朝時代の弘和3年/永徳3年(1383年)。鎮座地である高須賀地区は阿武隈川の旧河口にあたる。
太平洋から押し寄せる波と川からの土砂で流れが変化しやすく、浅瀬が多くできているため、船の出入りが困難で、遭難事故も多かったという。
そこで、亘理氏(武石氏)8代当主亘理行胤が、河口の安全を祈願して建立したと伝わる。主祭神は大海津見神。
明治5年(1872年)11月に村社に列したが、明治42年(1909年)3月23日に川口神社に合祀された。現在も川口神社の兼務神社。
御神体は鮫(サメ)の背中に乗る金色の十一面観音像と伝わる。ある年の大水の時、観音像が阿武隈川上流のどこかから流れてきた。
海に流れ出ようとしているこの観音像をサメが見つけ、多くのサメが協力して、この観音像を陸地に押し上げた。
嵐で海に流された漁師がサメに助けられたといわれ、その恩に報いるために村民は「サメに乗る十一面観音像」を御神体として当社を建立したという。
昭和初期までは、荒浜でもサメがよく獲れ、近くの市場だけでは置ききれず、阿武隈川の堤防までズラッとサメが並べられて競りが行われたという。
しかし、高須賀地区の人々は、サメやその肉を原料とするかまぼこなどの練り物を食べなかったという。
社殿は江戸時代末期のもので、一間社流造。前面・側面に高欄を設ける。向拝や社殿側面の蟇股にみられる江戸末期の彫刻が見事なことから、現在は町指定文化財。
当社の対岸の岩沼市寺島地区瀬崎には、住吉三神の一柱である表筒男神を祀る同名の神社があり、宝貴明神とも呼ばれている。両社は、阿武隈川を挟むかのように鎮座している。
【ご利益】
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