亘理鹿島三社の元宮かつ総社の鹿島宮、崇神天皇の裔とされる社家
[住所]宮城県亘理郡亘理町逢隈鹿島字宮前97
[電話]0223-34-2456

鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は、宮城県亘理郡亘理町にある神社。『延喜式神名帳』にある「鹿島天足和氣神社(陸奥国・曰理郡)」に比定される式内社(小社)。

また、式内社「鹿島緒名太神社」「鹿島伊都乃比気神社」の論社ともされる。他の論社はいずれも鹿島緒名太神社。鹿嶋大明神とも。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。

由緒書によると、第12代景行天皇41年8月6日、日本武尊により現在の鎮座地の北にある神宮寺地区字ヲフロの三門山へと勧請された。主祭神は、武甕槌神

明治期の『亘理郡神社明細帳』によれば、第10代崇神天皇の五世孫である鹿賀別王の嫡孫の三品掃部輔物部朝臣正隆が亘理に下った。

亘理郡鎮座の延喜式内社である亘理鹿島三社(当社、鹿島緒名太神社、鹿島伊都乃比気神社)と安福河伯神社の神司職を蒙った。

なお、鹿賀別王は「国造本紀」によれば、浮田国造として陸奥国宇多郡を統治していたという。現在も三品家が社家として奉斎している。

鹿島三社のうち、当社と鹿島緒名太神社は、『日本三代実録』記載の「陸奥国に鎮座する鹿島大神苗裔を祀る三十八の神社」のうちの二社とされている。

当社には、左殿に式内社「鹿島伊都乃比気神社」御祭神である稜威雄走神、右殿に式内社「鹿島緒名太神社」御祭神である猿田彦命を祀る。亘理鹿島三社の総社機能を有した。

当社は平安時代に北鹿島地区に遷座、江戸時代に現在地に再遷座した。他の二社もそれぞれ、鹿島緒名太神社は逢隈地区小山へ、鹿島伊都乃比気神社は吉田地区作田へ遷座した。

つまり、亘理鹿島三社の元宮でもある。当社の北東の北鹿島地区に鎮座する八雲神社の本殿南側には、三門山に祀られていた当時の鹿島神社の石祠が鎮座している。

吉田地区作田の民有地内にあった小祠が式内社「鹿島伊都乃比気神社」の論社の一つ。現在は、月山神社に合祀されている。

平安時代、桓武天皇の延暦元年(782年)5月朔日、祈祷を行ったところ、鹿島の神が凶賊討伐に神験を示したことから、勅命により勲五等封二戸が与えられた。

清和天皇の御世の貞観4年(862年)壬午6月15日に官社に列し、「鹿島宮」と称するようになり、同年同月18日には従四位上が授けられた。

天慶4年(941年)に鹿島地区字北鹿島の樫木山の山頂に遷座し、その後、領主から神領寄付などがあったが、天正年間(1573年-1591年)に起きた戦乱の影響で神領地が廃絶。

江戸時代になり、貞享3年(1686年)4月6日、亘理伊達家5代当主伊達実氏が現在地に社殿を再建した。

神輿殿は、亘理伊達家第10代当主の伊達村氏が寛政2年(1790年)に拝殿として建立。現在の社殿は、明治41年(1908年)に建立された。

明治に近隣の各社を合祀し、現在は、素盞鳴命天児屋根命誉田別命天之御中主命を配祀する。

例祭は4月8日。鎮座地の東1キロほどの亘理町逢隈鹿島吹田には当社の御腰掛場(御旅所)があり、祭典の神輿巡行の際に立ち寄る。

他に境内には、要石や、鹿島緒名太神社・鹿島伊都乃比気神社の石祠、痘神社がある。

なお、黒川郡富谷町大亀には、当社と同音異字の神社がある。やはり式内社。

【ご利益】
平穏安寧、武運長久・勝運、交通安全
鹿島天足和気神社 - 亘理鹿島三社の元宮かつ総社の鹿島宮、崇神天皇の裔とされる社家
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鹿島天足和気神社の御朱印