「御輿掛けの松」「沓石」伝承、仲哀・神功の御船が到着した地
[住所]福岡県中間市垣生424
[電話]093-244-1161
埴生神社(はにゅうじんじゃ/はぶじんじゃ)は、福岡県中間市垣生にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
中間市の遠賀川の西にある垣生公園内に鎮座している。公園内には、ツツジや、約2000本の桜が植えられ、毎年春には「桜祭り」が開催される。
公園内の羅漢山を中心に古墳時代後期の横穴墓、いわゆる「垣生羅漢百穴」が散在し多くの副葬品が出土している。
当地はもともと埴生(はにゅう)と呼ばれていたが、後に転じて垣生(はぶ)となったという。
第14代仲哀天皇が、神功皇后と御船でこの埴生の地に到着、熊襲征伐の行宮の旧跡で航海の安全を祈願し、船魂の神を祀ったという。
御祭神は、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・住吉大神。住吉大神が墨江大神で、船魂神。底筒男命・中筒男命・表筒男命のいわゆる住吉三神。
社伝に、「当社は埴生郷の大社なり。埴生郷は西北数ヶ村を包合せる大村である」、また源順の『古書和名類聚抄』に「岡の六郷の第一なり」とある。
戦国時代に大友氏の度重なる兵火により焼失。元亀2年(1571年)に花尾城主麻生隆実によって現在地に社殿が再建された。
旧地には、伝承の「御輿掛けの松」が残っていたが、明治8年(1875年)、土地改良により民地となり、伐採されたという。
また、古老の伝えによると、類なき磐石があり、神功皇后がこの石の上より遠近の山川を眺望したといわれ、後世「沓石」と名付けられた。
明治28年(1895年)、筑豊鉄道敷設の時に打ち砕かれ、今は名のみ残っているという。
昭和27年(1952年)には、近辺に鎮座していた十五社神社を相殿として合祀し、埴生八幡宮を現社号に改称した。なお、相殿には天照皇大神も祀る。
例祭は10月13日、北九州市・中間市・遠賀郡の神職が集い、筑前御殿神楽が奉納される。
【ご利益】
武運長久、開運招福、家内安全、交通安全、縁結び、安産
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・福岡県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、福岡県に鎮座している神社の一覧
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埴生神社(はにゅうじんじゃ/はぶじんじゃ)は、福岡県中間市垣生にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
中間市の遠賀川の西にある垣生公園内に鎮座している。公園内には、ツツジや、約2000本の桜が植えられ、毎年春には「桜祭り」が開催される。
公園内の羅漢山を中心に古墳時代後期の横穴墓、いわゆる「垣生羅漢百穴」が散在し多くの副葬品が出土している。
当地はもともと埴生(はにゅう)と呼ばれていたが、後に転じて垣生(はぶ)となったという。
第14代仲哀天皇が、神功皇后と御船でこの埴生の地に到着、熊襲征伐の行宮の旧跡で航海の安全を祈願し、船魂の神を祀ったという。
御祭神は、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・住吉大神。住吉大神が墨江大神で、船魂神。底筒男命・中筒男命・表筒男命のいわゆる住吉三神。
社伝に、「当社は埴生郷の大社なり。埴生郷は西北数ヶ村を包合せる大村である」、また源順の『古書和名類聚抄』に「岡の六郷の第一なり」とある。
戦国時代に大友氏の度重なる兵火により焼失。元亀2年(1571年)に花尾城主麻生隆実によって現在地に社殿が再建された。
旧地には、伝承の「御輿掛けの松」が残っていたが、明治8年(1875年)、土地改良により民地となり、伐採されたという。
また、古老の伝えによると、類なき磐石があり、神功皇后がこの石の上より遠近の山川を眺望したといわれ、後世「沓石」と名付けられた。
明治28年(1895年)、筑豊鉄道敷設の時に打ち砕かれ、今は名のみ残っているという。
昭和27年(1952年)には、近辺に鎮座していた十五社神社を相殿として合祀し、埴生八幡宮を現社号に改称した。なお、相殿には天照皇大神も祀る。
例祭は10月13日、北九州市・中間市・遠賀郡の神職が集い、筑前御殿神楽が奉納される。
【ご利益】
武運長久、開運招福、家内安全、交通安全、縁結び、安産
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