江戸中期の一揆騒動で農民に理解示し、罪を得た久留米藩の旧重臣を奉斎
[住所]福岡県久留米市通外町58
[電話]0942-80-8000 - 櫛原天満宮

五穀神社(ごこくじんじゃ)は、福岡県久留米市通外町にある神社。現在は櫛原天満宮の兼務神社である。参拝すれば、御朱印を頂ける。

江戸時代中期の享保13年(1728年)8月、生葉、竹野、山本の三郡の農民は、藩の重税に耐えられず、減税運動を起こした。

総勢5700余名が武器を持って善導寺に集まり、御井町まで押し寄せた。

27歳の若い家老の稲次因幡正誠は、一揆を起こした首謀者と一人で会いに行き、「農民の要求に応じる、1割1歩減税、首謀者の処刑はしない」と約した。

しかし、時の筑後国久留米藩の7代藩主有馬頼徸(よりゆき)や同僚たちの怒りが後年にかけて募り、正誠は享保19年(1734年)、御原郡津古村(小郡市)の庄屋斉田氏宅に幽閉させられた。

3000石の家老職を失い、享保21年(1736年)、正誠は悲運のうちに亡くなった。34才の若さだった。

罪ある身であったため、城下町に帰ることなく、小郡市の霊鷲寺に葬られた。その墓は現存している。

頼徸は、正誠の死後から12年目、寛延2年(1749年)、当社を創建した。

『久留米市誌』によれば、五穀豊穣を祈るため、インドの農耕神婆珊婆演底主夜神を奉斎したもので、江戸の神田山幡随意院新知恩寺の礼誉上人の勧めに従ったものだという。

現在の御祭神は豊宇気比売神。当社創建とともに正誠は稲次因幡正誠公として相殿に祀られたという。

当然、農民側による強い希望もあっただろうが、藩主造営の神社に、その藩主が裁決して罪を得、悲運の死を遂げた元重臣を祀る背景には、正誠の怨霊に対する恐れがあったことは想像できる。

江戸初期まで現御井町矢取付近にあった廃寺円通寺(真言宗)を境内に復興した。本尊は阿弥陀如来であったが火災に遭った。

安永年間(1772年-1781年)、頼徸は大悲堂を営造し、八女山中に産する銘木光遠木を用いて如意輪観音を彫刻させ安置した。

頼徸は天明3年(1783年)に亡くなるから、その死まで当社を崇敬し続けた、つまり、五穀豊穣の願いは当然として、正誠の怨霊を恐れ続けた、ということか。

例祭は10月15日。2月15日におかゆ炊き祭、3月15日におかゆ祭がある。

境内社に、天満神社(菅原道真。例祭は4月25日の春祭)、秋葉神社(味耜高彦根神。例祭は11月18日で秋葉祭)がある。

【ご利益】
五穀豊穣、諸願成就
五穀神社 - 江戸中期の一揆騒動で農民に理解示し、罪を得た久留米藩の旧重臣を奉斎
【関連記事】
福岡県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、福岡県に鎮座している神社の一覧
五穀神社の御朱印