元寇・文永の役の激戦地近くに自害した壱岐守護代・平景隆を祀る
[住所]長崎県壱岐市勝本町新城東触字尻井441
[電話]0920-47-3700 - 壱岐市観光連盟
新城神社(しんじょうじんじゃ)は、長崎県壱岐市勝本町にある神社。御朱印の有無は不明。
文永11年(1274年)10月14日、元軍・高麗連合軍は、対馬に続き、壱岐島の西側に上陸した。
壱岐守護代平景隆は100余騎で応戦したものの、圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、景隆は樋詰城で自害する。
『高麗史』金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。
明治19年(1886年)、景隆の最期の地で、本陣としていた樋詰城跡に本殿が建設され、当社は創建された。御祭神は平景隆である。
近くには、文永の役の最後の激戦地である新城古戦場がある。惨殺された多くの壱岐島民の死体を埋めた千人塚がある。
元寇殉国忠魂塔が中央に建ち、観音像、本来の千人塚の標石である自然石がある。案内看板もあり、元寇の悲惨さを忍ぶことができる。
少弐資時の墓と、少弐資時を祀る壱岐神社がある。また、元寇で言えば、対馬には宗助国を祀る小茂田浜神社がある。
【ご利益】
諸願成就
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[電話]0920-47-3700 - 壱岐市観光連盟
新城神社(しんじょうじんじゃ)は、長崎県壱岐市勝本町にある神社。御朱印の有無は不明。
文永11年(1274年)10月14日、元軍・高麗連合軍は、対馬に続き、壱岐島の西側に上陸した。
壱岐守護代平景隆は100余騎で応戦したものの、圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、景隆は樋詰城で自害する。
『高麗史』金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。
元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。高麗軍の将である朴之亮及び金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵を追った。元(モンゴル)・高麗連合軍による島民の大虐殺も行われた。
壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが、日本兵を1000余り討ち取った。
明治19年(1886年)、景隆の最期の地で、本陣としていた樋詰城跡に本殿が建設され、当社は創建された。御祭神は平景隆である。
近くには、文永の役の最後の激戦地である新城古戦場がある。惨殺された多くの壱岐島民の死体を埋めた千人塚がある。
元寇殉国忠魂塔が中央に建ち、観音像、本来の千人塚の標石である自然石がある。案内看板もあり、元寇の悲惨さを忍ぶことができる。
少弐資時の墓と、少弐資時を祀る壱岐神社がある。また、元寇で言えば、対馬には宗助国を祀る小茂田浜神社がある。
【ご利益】
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