境内社含め神功皇后の三韓征伐の伝承が多く残る対馬の古社、天道信仰
[住所]長崎県対馬市厳原町大字豆酘字龍良山1250
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多久頭魂神社(たくづたまじんじゃ)は、長崎県対馬市厳原町にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 対馬国 下県郡「多久頭神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

対馬北方の天神多久頭魂神社と同じく、対馬南端の当社も初代神武天皇元年の創建と伝わる。古くは「魂」字を付さずに「多久頭神社」と称されていた。

御祭神は、天照大神天忍穂耳命日子穂穂出見尊彦火能邇邇芸尊鵜茅草葺不合尊。例祭は10月18日。

本来の御祭神は対馬特有の神である多久頭神(多久頭魂神)とされる。社伝によると、神功皇后が三韓征伐に向かう時、諸神を拝した地の一つだという。

『続日本後紀』承和4年(837年)2月5日条に多久都神を無位から従五位下に叙するとある。中世、当社の多久頭魂神は天道法師とされ、天道信仰の社であった。

天神多久頭魂神社が対馬の北方の天道信仰の拠点だったのに対して、対馬南方の天童信仰の拠点が当社。

天道信仰は母子神信仰・太陽信仰・山岳信仰などが習合したものとされ、以下の伝説がある。

昔、宮中の女院が不義の疑いにより、ウツロ船に乗せて流され、内院の浜に漂着。山の渓流の傍らで出産した。鹿児島神宮縁起にも同じ話が伝わる。

あるいは、内院女御の婢(はしため)が日光に感応して出産したともいう。天日矛命の伝承に通じる話で、どちらにしろ、その子が長じて天道法師になった。

本来は神殿を持たず、禁足の聖山である天道山(竜良山)の遥拝所だった。明治の神仏分離以降は、神宮寺であった豆酘寺の観音堂を社殿とした。

この観音堂は昭和31年(1956年)の火災で焼失した。

高麗時代の銅製、径81.2センチの金鼓が伝わる。鰐口のこと。高麗の高宗32年乙巳(1245年)の銘があるとされる。

肥前松浦の鋳物師が康永3年(1344年)に製作した和鐘である梵鐘もある。寛弘5年(1008年)に最初に造られた鐘を再鋳した旨の銘もある。

いずれも国の重要文化財に指定されている。

所蔵していた県指定文化財「大蔵経」が、平成24年(2012年)10月に海神神社の「銅造如来立像」や観音寺 (対馬市)の「観世音菩薩坐像」とともに盗まれた。

平成25年(2013年)1月に韓国に持ち込んで売り捌こうとしていた韓国人グループが拘束され、仏像2体は回収されたが、当社の大蔵経は「神社周辺の野山に捨てた」と供述。

境内に高御魂神社がある。『延喜式』神名帳に記載のある下県郡の式内社(名神大社)。もとは別の場所にあったのが当社境内に遷座したという。

あるいは、もとの場所に戻ったものか。近代社格では村社、例祭は1月3日。天道信仰では多久頭魂神の母神ともされ、当社ともそもそも対。

神武天皇の時代に津島(対馬)県主となった建弥己々命が、その祖である高皇産靈尊を奉斎したもの。神功皇后が三韓征伐の際には戦勝を祈願した。第23代顕宗天皇3年4月、神田14町が献上された。

他にも、当社の広い境内にはいくつかの境内社があり、師殿神社は旧村社で、豆酘郡主であった宗盛世を御祭神とする。

神住居神社は、神功皇后の三韓征伐の際、行宮を定め、諸神を祀った場所で、そのため行宮神社とも呼ばれる。

國本神社は庁神を祀る神社。聖武天皇の勅により斎祀された社で、政所の神とされる。

下宮神社は御祭神が豊玉姫命で、海神を祀る。別名を淀姫玉妃命と称し、神功皇后の三韓征伐の際は、干珠・満珠を神功皇后に奉ったという。

五王神社は、國本神社の相殿に祀られていおり、もとの鎮座地である伽藍原は、護法原とも呼ばれ、牛王原と書くようになって、五王に変化したという。

【ご利益】
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多久頭魂神社 - 境内社含め神功皇后の三韓征伐の伝承が多く残る対馬の古社、天道信仰
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