神門御神幸祭など多くの古来からの特殊神事残す、龍の天井絵とクスの巨木
[住所]宮崎県児湯郡木城町大字椎木1306-イ
[電話]0983-32-2854
比木神社(ひきじんじゃ)は、宮崎県児湯郡木城町にある神社。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
第13代成務天皇の御宇、武内宿禰が国県を分けて邑里を定めた時、比木方百町、郡司方百町の宗廟五社大明神を崇め奉ったのが当社の創祀。
御祭神は、大己貴命・素盞鳴命・櫛稲田姫命・事代主命・三穂津姫命。
天平勝宝8年(756年)、半島から660年には滅亡したとされる百済の王族と称する禎嘉王とともに来日したその子の福智王は、一度安芸厳島に行った後、当地に渡ってきたという。
禎嘉王は没後、東臼杵郡美郷町の神門神社に祀られ、福智王は妃とともに、当社に合祀された。
江戸時代になると、高鍋藩主秋月家代々の崇敬社であり、秋月家は当社を氏神とし、新納鎮守で正観音を本地とする神としてその施政の宗教上における中心とした。
歴代藩主よりの御寄進も多く、寛文9年(1669年)に社殿を焼失、2年後に改築された。寛文12年(1672年)、2代藩主秋月種春が神輿を寄進している。
3代藩主秋月種信の時には社領50石、その後52石5斗になり、祭典には参拝・代参がなされた。元録2年(1689年)、4代藩主秋月種政が鳥居を建立した。
元禄3年(1690年)には社殿を改築、宝暦2年(1752年)、6代藩主秋月種美は一の大鳥居を建立し、安政4年(1857年)には社殿を修復した。
明治元年(1868年)の神仏分離令により長照寺号が廃され、比木輪番所となり、明治2年(1869年)に現社号に改称、明治5年(1872年)に郷社に列した。
現在の社殿は明治10年(1877年)に造営されたもので、渡殿の天井板七坪に藩の絵師季仲により神龍一対が描かれている。
この絵師季仲が龍を描くにあたって、龍の化身の美女が現れて、龍の姿を見せ、それをもとに描いたという伝承がある。また、龍が絵から飛び出すとも。
当社には古来からの特殊神事が多く、御里に廻り、裸祭、神事、六社連合大神事、大年下り、神門御神幸祭、御鈴の口開けなどがある。
御里廻りは、10月28日・29日の両日、高鍋・木城の三十ヶ所近い御旅所を神輿が巡幸する祭で、御祭神大己貴命が国土を巡幸し、天下を治めた遺風を残すものという。
裸祭は、「裸ホイホイ詣り」ともいわれ、11月14日に福智王の太子を祀った摂社若御子神社のお祭の夜、参拝者は自宅で水で身を清め、フンドシ、腰巻姿で腰には〆縄を締め「ホイホイ」と声にして参拝する。
神事と六社連合大神事は、秋月藩主息女重病の際、当社に祈願して平癒したことにより、報恩感謝のため終夜神楽を奉納したのが始まり。当社を含む近郊六社で行われる。
神門御神幸祭は、旧暦12月14日-12月23日の10日間、父神禎嘉王を祀る神門神社を訪ねる御神幸祭である。行きを「上りまし」、帰りを「下りまし」と呼び、現在は3日間。
いわゆる師走まつり(師走祭)で、福智王の弟華智王を祀る伊佐賀神社で神門神社側と出会い、その後禎嘉王の御陵である塚原を「オー」の声で三度回り、神門へ到着。
翌日御装束替え、大祭典、益見太郎塚、山宮社、御洗濯、御宮を巡り、御稲穂受けの神事がある。別れの日は互いの顔に白粉を塗り合い、「オサラバー」と言い合いながら御還幸となる。
御鈴の口開け祭は、旧暦1月5日に御神楽初の祭と称し、祭典の後、神楽五番が社殿で舞われる。
境内は楠(クス)の大木におおわれ、特に鳥居前の2本は推定樹齢500年とされ、また、県の巨樹百選に選ばれているちしゃの木などめずらしい樹木もある。
【ご利益】
病気平癒、五穀豊穣・商売繁盛、厄災除け
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比木神社(ひきじんじゃ)は、宮崎県児湯郡木城町にある神社。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
第13代成務天皇の御宇、武内宿禰が国県を分けて邑里を定めた時、比木方百町、郡司方百町の宗廟五社大明神を崇め奉ったのが当社の創祀。
御祭神は、大己貴命・素盞鳴命・櫛稲田姫命・事代主命・三穂津姫命。
天平勝宝8年(756年)、半島から660年には滅亡したとされる百済の王族と称する禎嘉王とともに来日したその子の福智王は、一度安芸厳島に行った後、当地に渡ってきたという。
禎嘉王は没後、東臼杵郡美郷町の神門神社に祀られ、福智王は妃とともに、当社に合祀された。
江戸時代になると、高鍋藩主秋月家代々の崇敬社であり、秋月家は当社を氏神とし、新納鎮守で正観音を本地とする神としてその施政の宗教上における中心とした。
歴代藩主よりの御寄進も多く、寛文9年(1669年)に社殿を焼失、2年後に改築された。寛文12年(1672年)、2代藩主秋月種春が神輿を寄進している。
3代藩主秋月種信の時には社領50石、その後52石5斗になり、祭典には参拝・代参がなされた。元録2年(1689年)、4代藩主秋月種政が鳥居を建立した。
元禄3年(1690年)には社殿を改築、宝暦2年(1752年)、6代藩主秋月種美は一の大鳥居を建立し、安政4年(1857年)には社殿を修復した。
明治元年(1868年)の神仏分離令により長照寺号が廃され、比木輪番所となり、明治2年(1869年)に現社号に改称、明治5年(1872年)に郷社に列した。
現在の社殿は明治10年(1877年)に造営されたもので、渡殿の天井板七坪に藩の絵師季仲により神龍一対が描かれている。
この絵師季仲が龍を描くにあたって、龍の化身の美女が現れて、龍の姿を見せ、それをもとに描いたという伝承がある。また、龍が絵から飛び出すとも。
当社には古来からの特殊神事が多く、御里に廻り、裸祭、神事、六社連合大神事、大年下り、神門御神幸祭、御鈴の口開けなどがある。
御里廻りは、10月28日・29日の両日、高鍋・木城の三十ヶ所近い御旅所を神輿が巡幸する祭で、御祭神大己貴命が国土を巡幸し、天下を治めた遺風を残すものという。
裸祭は、「裸ホイホイ詣り」ともいわれ、11月14日に福智王の太子を祀った摂社若御子神社のお祭の夜、参拝者は自宅で水で身を清め、フンドシ、腰巻姿で腰には〆縄を締め「ホイホイ」と声にして参拝する。
神事と六社連合大神事は、秋月藩主息女重病の際、当社に祈願して平癒したことにより、報恩感謝のため終夜神楽を奉納したのが始まり。当社を含む近郊六社で行われる。
神門御神幸祭は、旧暦12月14日-12月23日の10日間、父神禎嘉王を祀る神門神社を訪ねる御神幸祭である。行きを「上りまし」、帰りを「下りまし」と呼び、現在は3日間。
いわゆる師走まつり(師走祭)で、福智王の弟華智王を祀る伊佐賀神社で神門神社側と出会い、その後禎嘉王の御陵である塚原を「オー」の声で三度回り、神門へ到着。
翌日御装束替え、大祭典、益見太郎塚、山宮社、御洗濯、御宮を巡り、御稲穂受けの神事がある。別れの日は互いの顔に白粉を塗り合い、「オサラバー」と言い合いながら御還幸となる。
御鈴の口開け祭は、旧暦1月5日に御神楽初の祭と称し、祭典の後、神楽五番が社殿で舞われる。
境内は楠(クス)の大木におおわれ、特に鳥居前の2本は推定樹齢500年とされ、また、県の巨樹百選に選ばれているちしゃの木などめずらしい樹木もある。
【ご利益】
病気平癒、五穀豊穣・商売繁盛、厄災除け
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