父の禊から誕生した地に住吉三神を奉斎する、全住吉神社の元宮
[住所]宮崎県宮崎市塩路3082
[電話]0985-39-8500

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、宮崎県宮崎市塩路にある神社。近代社格では村社。ひむか神話街道100の伝承地第55番。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『古事記』『日本書紀』に「伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)に禊ぎ祓えたまいしに」と記された「阿波岐原」に関係する神社(『古事記』該当部分)。

境内は塩路に隣接する阿波岐原を含む広大な敷地を持っている。南には住吉三神の父である伊邪那岐神を祀る江田神社があり、御祭神の父子関係を含め両社の結びつきは深い。

阿波岐原にはこの2社のほか、小戸神社一葉稲荷神社があり、いずれも古社として知られる。ただし、小戸神社は、江戸期の大津波の後、現在は宮崎市鶴島に移転。

住吉三神が誕生したのが当地であるという由緒から、全国の住吉神社の元宮を称し、「元」の紋が代々受け継がれている。

海が近いこともあって古代より海の神、航海の安全の神として信仰されているほか、疱瘡除け・無病息災の神社としても崇められている。

御祭神は上筒男命中筒男命底筒男命で、「住吉三神」と総称される。

初代神武天皇は、都を置いたとされる宮崎神宮の摂社皇宮屋(こぐや、皇宮神社)を発して日向美々津(宮崎県日向市)から東征の舟出をするにあたり、航海の安全を立磐(たていわ、現 立磐神社)で祈願した。

その際、神武天皇の6代祖先で、航海の神様である当社の住吉三神を奉斎したとされており、第6代孝安天皇以前の神武天皇の時にはすでに当社は鎮座していたと言われる。

第14代仲哀天皇の皇后である神功皇后の三韓征伐の際には、神威を輝かせたといわれる。

当社の神威に関する詳細は不明だが、神功皇后の三韓征伐は、現在の大阪の住吉大社や、そこから瀬戸内海沿いに、さらに北九州、壱岐・対馬に点在する住吉神社の誕生のきっかけとなる。

鎌倉時代初期、歌人で神道家の卜部兼直は下記のように詠んでいる。
西のうみ 檍ケはらの汐路より あらはれ出てし 住吉の神
江戸時代初期、神道家の橘三喜の『諸国一宮巡詣記』には、以下のようにある。
江田の御社に参りそれより檍が原の住吉に詣でて、尋ね来て聞けば心も住吉の松は檍が原の松原。この海辺に伊弉諾命の身そぎ給う。
寛文2年(1662年)、外所地震(西海大地震)による大津波で大被害を受け、社勢は衰退した。近年、全国の住吉社の元宮、『古事記』『日本書紀』ゆかりの地として再興が進んだ。

本殿東側には梅園があり、黒松の密集地帯もある。境内には住吉地区の戦没者の慰霊碑や枇榔樹(びろうじゅ)の石碑がある。末社として、祖霊社がある。

例祭は2月11日。住吉神楽が伝わる。歴史は古く、衣装は更新されて今は天保11年(1841年)銘の衣装が残る。

『宮崎県神社誌』に携わった史家の日高祥は、著書『史上最大級の遺跡 日向神話再発見の日録』において、住吉三神は、古代の日向国で豊富だった褐鉄鉱石の神だったとしている。

褐鉄鉱石は、鈴・筒・管と呼ばれ、産地は宮崎県内に51カ所あったという。古代日向で盛んだった鉄器の生産を可能にしたタタラ溶鉱炉との関係も指摘している。

【ご利益】
水難除け、海上・交通安全、大漁満足・商売繁盛
住吉神社(宮崎市) - 父の禊から誕生した地に住吉三神を奉斎する、全住吉神社の元宮
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