雄略朝の創建、近世に鹿島を勧請して「鹿島社」に、相模国式内十三社の一つ
[住所]神奈川県大和市深見3367
[電話]046-261-2539

深見神社(ふかみじんじゃ)は、神奈川県大和市深見にある神社。御祭神は、変遷がありつつも、現在は、闇龗神武甕槌神建御名方神。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 相模国 高座郡「深見神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

『総国風土記』によると、第21代雄略天皇22年(478年)3月に創祭。当時は闇龗神を御祭神としたと考えられている。

かつては相模湾の海がこの辺りまで深く入り込んでいて、舟・筏による交通が敷かれていたという説がある。境川流域一帯を表す総称として、深見は古くは「深海」「深水」と書かれた。

なお、深見という地名は承平年間(931年-938年)の『倭名類従抄』に「相模国高座郡深見郷」と記されたのが文献上の初出。

当社の縁起では、東国の平定を目的とする武甕槌神が舟師を率いて常陸鹿島より深海に進軍した際、伊弉諾尊の御子である倉稲魂神と闇龗神によりこの地が治められた。

かつてより地元民による信仰を集めたが、源頼朝や小田原北条、武田信玄、渋谷庄司重国、太田道灌らにも特に篤く信仰した。

徳川幕府による大坂の陣の折、当社で武運長久を祈願した旗本の坂本小左衛門重安は、その際に田を寄進し、「鹿島田」として今に残っている。

当社は近世を通じて「鹿島社」と称されたが、坂本家が鹿島神宮を勧請したためとされる。この際、もともとの御祭神である闇龗神は、御倉稲荷神社に合祀されたという。

重安の養子で寺社奉行となった坂本内記重治は、当社を度々参拝し、社殿の造営も行い、「相模國十三座之内深見神社」と記す社号標を建てた。

明治6年(1873年)、郷社に列する。しかし、3年後の明治9年(1876年)には隣の仏導寺の火災の煽りを受け、社殿から古文書に至るまで尽く焼失し荒廃した。

明治42年(1909年)、深見の諏訪の森に鎮座していた末社の諏訪神社と合併し、建御名方神を当社に合祀した。

なお、この時点では仮殿であり本殿などは造られていない。焼失から66年後の昭和16年(1941年)になってようやく現在地に再建された。

平成24年(2012年)には再建70周年を記念して、新しい社号標を建立し、創建当時の御祭神である闇龗神が御倉稲荷神社より本殿に合祀された。

例祭は9月15日。現在は敬老の日の前日に行われている。

樹齢500年、幹周り4メートル、高さ43メートルのハルニレが御神木。市指定天然記念物。基本的に山地に自生するため、低地で育つのは全国的にも珍しい。

何の木か不明であったことから、当社では古くより「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれている。かつてはこの木の北側に樹齢1300年とも伝えられる御神木の「延喜の松」があった。

境内には、御倉稲荷神社(おくら稲荷)の他、摂社として靖國社(厚木空神社)と、富澤稲荷神社がある。境外に、八坂神社と八雲神社がある。

付近には、旧石器時代や縄文時代の石器、奈良時代から平安時代にかけての住居跡を含む深見神社南遺跡がある。

【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、武運長久・勝運、祈雨
深見神社 - 雄略朝の創建、近世に鹿島を勧請して「鹿島社」に、相模国式内十三社の一つ
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深見神社の御朱印