北条早雲に敗れた三浦義意の首が飛来した地、5月例大祭は浜下りと居神流
[住所]神奈川県小田原市城山4-23-29
[電話]0465-23-2616
居神神社(いがみじんじゃ)は、神奈川県小田原市城山にある神社。近代社格では村社。国道1号線に面し、光円寺に隣接する。参拝すれば、御朱印を頂ける。
三浦半島の新井城主だった三浦荒次郎義意は、伊勢新九郎盛時(北条早雲)に攻城され、永正13年(1516年)7月11日、父陸奥守善同とともに自刃した。
戦後、義意自刃の際、その首は三浦半島から海を越えて小田原まで飛来し、井神の森の古松にかぶりつき、そのまま3年間、通行人をにらみつけたという。
そこで、城下の僧が代わる代わる供養したが、成仏しなかった。これを聞いた久野総世寺の四世忠室存孝和尚が駆けつけた。
松の下に立ってしばらく読経の後、「うつつとも夢とも知らぬひとねむり、浮世の隙を曙の空」と詠むと、さしもの怨霊も成仏し、たちまち白骨として地に落ちたという。
その時「われ今より当所の守り神にならん」との声があったという。そこで当社が創建された。
当町十字2丁目・3丁目・4丁目、大窪村板橋の鎮守で、明治6年(1873年)7月30日に村社に列した。
明治43年(1910年)9月10日、大窪村板橋浅間神社(木花咲耶姫命)・同村同字秋葉神社(火之加具土命)を合併する。
例祭は5月4日・5日で例大祭。本社神輿(神社神輿)の宮入りとして知られる。神社神輿は5月3日の北條五代祭りのパレードと5日の神幸祭のみに担がれる。
5日朝に宮出しされた神輿は13時頃に荒久海岸で浜降りをし、夜の19時半からの宮入でクライマックスを迎える。
神輿の担ぎ方は小田原流の中でも居神流と呼ばれる特殊なもので、荒々しい担ぎ方で知られる。
境内には古石碑群がある。この古碑群は市街地に残るものとしては最古のもので、鎌倉時代末期のもの。いずれにも念仏乗の字句があり、念仏供養のために建立された。
昭和60年(1985年)、本地蔵堂および鞘堂が建立された。当社創建時より本地仏として祀られている、恵心僧都の作とされる子安地蔵尊大菩薩が安置されている。
【ご利益】
諸願成就、水難除け、大漁満足・商売繁盛

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三浦半島の新井城主だった三浦荒次郎義意は、伊勢新九郎盛時(北条早雲)に攻城され、永正13年(1516年)7月11日、父陸奥守善同とともに自刃した。
戦後、義意自刃の際、その首は三浦半島から海を越えて小田原まで飛来し、井神の森の古松にかぶりつき、そのまま3年間、通行人をにらみつけたという。
そこで、城下の僧が代わる代わる供養したが、成仏しなかった。これを聞いた久野総世寺の四世忠室存孝和尚が駆けつけた。
松の下に立ってしばらく読経の後、「うつつとも夢とも知らぬひとねむり、浮世の隙を曙の空」と詠むと、さしもの怨霊も成仏し、たちまち白骨として地に落ちたという。
その時「われ今より当所の守り神にならん」との声があったという。そこで当社が創建された。
当町十字2丁目・3丁目・4丁目、大窪村板橋の鎮守で、明治6年(1873年)7月30日に村社に列した。
明治43年(1910年)9月10日、大窪村板橋浅間神社(木花咲耶姫命)・同村同字秋葉神社(火之加具土命)を合併する。
例祭は5月4日・5日で例大祭。本社神輿(神社神輿)の宮入りとして知られる。神社神輿は5月3日の北條五代祭りのパレードと5日の神幸祭のみに担がれる。
5日朝に宮出しされた神輿は13時頃に荒久海岸で浜降りをし、夜の19時半からの宮入でクライマックスを迎える。
神輿の担ぎ方は小田原流の中でも居神流と呼ばれる特殊なもので、荒々しい担ぎ方で知られる。
境内には古石碑群がある。この古碑群は市街地に残るものとしては最古のもので、鎌倉時代末期のもの。いずれにも念仏乗の字句があり、念仏供養のために建立された。
昭和60年(1985年)、本地蔵堂および鞘堂が建立された。当社創建時より本地仏として祀られている、恵心僧都の作とされる子安地蔵尊大菩薩が安置されている。
【ご利益】
諸願成就、水難除け、大漁満足・商売繁盛

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