海老名の総氏神、相模国で国史に叙位が明記される三社の一つ、水引き祭り
[住所]神奈川県海老名市上郷1-4-41
[電話]046-234-4763

有鹿神社(あるかじんじゃ)は、神奈川県海老名市上郷に本宮と中宮が、相模原市南区に奥宮がある神社。参拝すれば、御朱印を頂けるが、神職は常駐していないので、事前に問合せするのが無難。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 相模国 高座郡「有鹿神社」に比定される式内社(小社)。

・本宮:神奈川県海老名市上郷1-4-41
・中宮:神奈川県海老名市上郷1-12
・奥宮:神奈川県相模原市南区磯部1780の勝坂遺跡付近

県央に流れる鳩川(有鹿河)沿いに形成された、有鹿郷に鎮座し、相模国最古級の神社とされる。「お有鹿様」とも呼ばれる。

現在は海老名の総氏神。相模国五宮ともされるが、諸説ある。相模五社には含まれない。また、中世までは広大な境内と神領を誇り、当時としてはまだ貴重な「正一位」を賜った。

御神体は、相模原市南区磯部の勝坂にある泉湧く洞窟。奥宮のある地域周辺は、国の史跡に指定されている勝坂遺跡。

また、縄文時代中期より祭祀が行われていた有鹿祭祀遺跡からは、銅鏡、鉄鏡、勾玉などが出土している。

御祭神は、有鹿比古命(本宮と中宮)・有鹿比女命(奥宮と中宮)・大日靈貴命。『神社覈録』では天太玉命とも。有鹿比古命・有鹿比女命は記紀には見えない神で、太陽神・水の神とされる。

天智天皇3年(664年)5月、国家的な祭礼を行った記録がある。天平勝宝8年(756年)、郷司の藤原廣政により、海老名耕地500町歩が寄進され神領となる。

『三代実録』によると、貞観11年(869年)、従五位上を授けられる。相模国の正史に叙位が明記された神社は、当社の他、寒川神社と石楯尾神社のみ。

石楯尾神社の論社は複数あり、御祭神もそれぞれ違うが、石楯尾大神だとすれば、当社を含むこの三社は、記紀には見えない神々を奉斎する神社という共通点がある。

「正一位」を賜った鎌倉時代、社殿は豪奢で、神宮寺である総持院と合わせ、十二の坊舎が甍を並べ、蒼々たる大境内を誇っていたという。

元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が滅亡し、当社も総持院とともに新田義貞軍による兵火の災いを受け、美麗を極めた社殿を始め、文書、記録類に至るまでことごとく灰燼に帰した。

永享10年(1438年)にも永享の乱があり、関東管領の足利持氏は当社の近くにある宝樹寺に本陣を置き、幕府軍と戦い敗走。これによって海老名氏は滅亡し、当社も衰微した。

天正3年(1575年)、海老名耕地の用水を守る「水引祭」が復活し、相模国五ノ宮、海老名総鎮守として徐々に再興した。

天正19年(1591年)には、徳川家康より朱印10石の寄進を受け、また元和8年(1622年)、海老名郷の領主となっていた高木主水の内室により社殿が再建された。

明治維新により、別当寺の総持院から分離独立。明治6年(1873年)、一時県社に列せられたが、最終的に郷社となる。明治43年(1910年)には神饌幣帛料供進社に指定された。

7月14日は例大祭。2カ月にわたって斎行される水引き祭りがある。4月8日に本宮より奥宮傍の「有鹿窟」へ霊石を運び、6月14日に還御する「有鹿さまの水もらい」とも呼ばれる神事。

霊石が「有鹿窟」に安置されている約2ヶ月間、かつては鴨川の水の利用権が海老名周辺(海老名、社家、中新田など五箇村)の人々に優先され、座間郷(現 相模原市)の人々が利用できなかったという。

この当たりの経緯が、鈴鹿明神社に残る、鈴鹿神と、当社の有鹿神との闘争という伝承に投影されているとも考えられている。

拝殿西側に末社の日枝社(大己貴命)・稲荷社(倉稲魂命)・諏訪社(建御名方命)が三社様と総称され鎮座し、境内の東端には菅原道真を祀る有鹿天神社がある。

境外社として、摂社が二社ある。本宮から東方約400メートルには「有鹿の井戸(化粧井戸)」がある三王三柱神社が、本宮から南西方向約500メートルには神武社が鎮座する。

近年、当社宮司がパンダの被り物をして、顔はパンダ、体は宮司という、なんともシュールな「パンダ宮司」 が日々参拝客を楽しませているとして話題になっている。パンダ神社とも。

【ご利益】
五穀豊穣、水の恵み、開運招福
有鹿神社 - 海老名の総氏神、相模国で国史に叙位が明記される三社の一つ、水引き祭り
【関連記事】
神奈川県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、神奈川県に鎮座している神社の一覧
有鹿神社の御朱印