ニニギが最初に上陸した地、島津家当主の崇敬、二十日祭り
[住所]鹿児島県南さつま市笠沙町片浦4108
[電話]-
野間神社(のまじんじゃ)は、鹿児島県南さつま市笠沙町にある神社。野間岳の八合目に鎮座する。旧名は野間権現で、近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
創始の年代は不明であるが、社記によれば、野間岳は天孫降臨において瓊々杵尊が最初に上陸した地であり、山腹に神代の都「笠狭宮」があったとされる。
野間岳は標高591メートルの小山ながら、古くから山岳信仰の対象となっており、海上から目立つ山容のため、特に航海者からの信仰が厚かった。
当初は野間岳の山頂に「東宮」と「西宮」の二つの本殿があり、東宮には瓊瓊杵尊・鹿葦津姫命を、西宮には火蘭降尊・彦火々出見尊・火照尊を祀った。
しかし、その後西宮では「娘媽」「順風耳」「千里眼」という神が祀られるようになった。この3柱の神は中国沿岸部の祠で見られる神で、この地域と中国との関係を示唆する。
鹿児島県神社庁によれば、他に天神七代・地祇五代・伊弉諾尊・大山祇命・猿田彦命・事勝国勝長狭命を祀る。
島津中興の祖、島津忠良公(日新公)が当社を崇敬し、天文23年(1554年)に東宮を再建。永禄10年(1567年)にはその息子・島津貴久、孫・島津義久が連名で西宮を再建。
しかし、地理的に台風被害の多い土地で、その社殿が崩壊したため、文政13年(1830年)には薩摩藩10代藩主島津斉興が現在地の八合目に、東宮と西宮を統合した一つの社殿として再建した。
その社殿も被害を受け、現在の社殿は昭和51年(1976年)にコンクリートで作り替えられたものである。
例祭は2月20日で、二十日祭り(二十日まつり)が行われる。家内安全や豊漁祈願に市内外から多数の参拝客が訪れる。
【ご利益】
家内安全、一族・子孫繁栄
【関連記事】
・鹿児島県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、鹿児島県に鎮座している神社の一覧
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野間神社(のまじんじゃ)は、鹿児島県南さつま市笠沙町にある神社。野間岳の八合目に鎮座する。旧名は野間権現で、近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
創始の年代は不明であるが、社記によれば、野間岳は天孫降臨において瓊々杵尊が最初に上陸した地であり、山腹に神代の都「笠狭宮」があったとされる。
野間岳は標高591メートルの小山ながら、古くから山岳信仰の対象となっており、海上から目立つ山容のため、特に航海者からの信仰が厚かった。
当初は野間岳の山頂に「東宮」と「西宮」の二つの本殿があり、東宮には瓊瓊杵尊・鹿葦津姫命を、西宮には火蘭降尊・彦火々出見尊・火照尊を祀った。
しかし、その後西宮では「娘媽」「順風耳」「千里眼」という神が祀られるようになった。この3柱の神は中国沿岸部の祠で見られる神で、この地域と中国との関係を示唆する。
鹿児島県神社庁によれば、他に天神七代・地祇五代・伊弉諾尊・大山祇命・猿田彦命・事勝国勝長狭命を祀る。
島津中興の祖、島津忠良公(日新公)が当社を崇敬し、天文23年(1554年)に東宮を再建。永禄10年(1567年)にはその息子・島津貴久、孫・島津義久が連名で西宮を再建。
しかし、地理的に台風被害の多い土地で、その社殿が崩壊したため、文政13年(1830年)には薩摩藩10代藩主島津斉興が現在地の八合目に、東宮と西宮を統合した一つの社殿として再建した。
その社殿も被害を受け、現在の社殿は昭和51年(1976年)にコンクリートで作り替えられたものである。
例祭は2月20日で、二十日祭り(二十日まつり)が行われる。家内安全や豊漁祈願に市内外から多数の参拝客が訪れる。
【ご利益】
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