神武天皇や、『古事記』雄略天皇ゆかり、役小角が創祀、楠木正成が活躍した地
[住所]奈良県御所市高天472
[電話]0721-74-0005

葛木神社(かつらぎじんじゃ)は、奈良県御所市高天にある神社。主祭神は一言主大神。参拝すれば、御朱印を頂ける。

現在は金剛山守護神の葛城38社を合祀、建角身命・大山祇命豊受比売命素盞鳴命大国主神少彦名神玉依比売命健御名方富命・後醍醐天皇・護良親王・楠木正成・楠正行を配祀する。

一般的に「金剛山」と呼ばれているものの、その名の山はなく、大日岳・葛木岳・湧出岳の三峰の総称となる。

その最高峰が当社のある葛木岳で、標高は1125メートル、古くは高天山と呼ばれていた。山頂は現在、当社の禁足地であり、立ち入り禁止。

『日本書紀』の初代神武天皇の条に「高尾張邑に土蜘蛛がいて、その人態は、背丈が短く、手足が長かった。侏儒と似ていた。皇軍は葛の網を作って、覆い捕えてこれを殺した。そこでその邑を葛城とした」とあり、これが当地一帯のことだといわれている。

飛鳥時代の天智天皇4年(665年)、修験道の開祖とされる役小角が16歳の時、この山に登り霊気を感得し長い修行の後、金剛山頂上に法起菩薩を御本尊とする金剛山転法輪寺を建立。

その際、役小角の祖神であった一言主神を祀る当社を鎮守としてあわせ祀ったのが始まりとされている。

以後、真言密教の霊場として信仰を集め、転法輪寺の山号である「金剛山」が略称のように使われ、葛城山脈中の最高峰を指す名称になった。

鎌倉時代末期には、一帯を治めていた楠木正成が転法輪寺の勢力を利用し、500の寡兵で幕府軍5万の大軍を寄せつけず、転法輪寺のすぐ近くに位置する国見城が千早城の背後の抑えとして重要な役割を果たしたといわれる。

『葛木家系譜略』には、山神・山主権現社とあり、南北朝時代の弘和元年(1381年)に再興、しかし文明4年(1472年)に焼亡し、翌年に再建されたとある。

江戸時代前期の本草学者・儒学者である貝原益軒の『南遊紀行』に、「絶頂には葛城の神社あり、一言主の神といふ」とみえる。

明治元年(1868年)には神仏分離の憂き目に遭い廃寺となったという。明治期に爆発した仏教排斥の流れは楠木正成の貢献が大きいとも考えられ、皮肉というべきか。昭和37年(1962年)に復興し現在に至る。

奈良県に所在するが、参拝ルートは、大阪府千早赤阪村の金剛山ロープウェイが便利。心身の鍛練と当社への参拝を兼ねて、千日登山を目指す人も多いという。

毎年7月7日の役行者の忌日に例祭が斎行され、主祭神である一言主大社神に一願成就を祈願し、午後に転法輪寺で蓮華法要の会式が行われる。

境内摂社に、矢刺神社がある。御祭神は雄略天皇で、御猪狩遺跡とも。『古事記』にも記載された雄略天皇の説話に基づく旧地だという(『古事記』該当部分)。

同様の説話は葛木岳の東北の山麓に鎮座する葛城一言主神社にも伝わる。同じ市内に、同じ御祭神が祀られているものの、両者の関わりを論じるものは意外と少ない。

金剛つながりで、海上自衛隊のミサイル護衛艦「こんごう」の艦内神社に分祀したという。ただし、日本海軍の戦艦「金剛」の艦内神社は、建水分神社などを勧請していた。

【ご利益】
諸願成就、身体壮健、リフレッシュ
葛木神社 - 神武天皇や、『古事記』雄略天皇ゆかり、役小角が創祀、楠木正成が活躍した地
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こんごう - Wikipedia