七社・金毘羅様・稲尾神社と呼ばれた旧別府港の守護神、松方正義の創建
[住所]大分県別府市元町16
[電話]0977-21-1111
波止場神社(はとばじんじゃ)は、大分県別府市元町にある神社。近代社格では無格社。御朱印の有無は不明。
御祭神は、大物主命・気長足姫命・倉稲魂命・菅原神・市杵島姫命・三筒男命・事代主命。七福神にならって海に関係する神々を7柱集めたとされ、「七社」とも呼ばれる。
近隣では近年まで「金毘羅様」と呼ばれていた。また、元西鉄ライオンズの稲尾和久の生家に近いことから「稲尾神社」とも呼ばれた。
明治3年(1870年)2月に着工した旧別府港(楠港)の安全と発展を祈願して、当時、日田県知事であった松方正義によって同年6月に創建された。
その鎮座祭に配られた記念の扇面には当時の新波止場や流川、松林に家並などの漁村風景が描かれている。扇の裏面には「港の左右の干潟に出湯があり、海内稀なる潮湯泉にてもろもろの病を治す」と記されている。
社殿の完成は明治7年(1874年)。拝殿は入母屋造桟瓦葺妻入り。梁間3間、桁行2間の吹放しで、正面には「波止場神社」と松方正義の書になる木彫りの額が掲げられている。
向拝の木鼻や手挟みには波の紋様が刻まれ、格天井には明治4年(1871年)、駐春園主人嶋石生の手になる花鳥、十二支が描かれている。
本殿は1間社流造桟瓦葺で彩色され、拝殿につながっている。明治40年(1907年)には社地の整備が行われ、玉垣が造られるとともに、鳥居が寄進された。
大正元年(1912年)には、当時の別府町長であった吉田嘉一郎によって、境内に「別府築港之碑」が建立された。この碑も、松方正義が揮毫したもの。
それによれば、総工費2万両、東西100間、南北80間の防波堤を築き、明治6年(1873年)初めて汽船「益丸」が就航したとある。
ちなみに、松方正義は大正13年(1924年)、日田市の日隈神社の境内に生祠が設けられ、松方神社と呼ばれたが、戦後に廃絶した。現在も跡地を示す石碑が建つ。
戦後、荒廃し祭礼も廃れたが、昭和48年(1973年)に夏祭りが復活した。
【ご利益】
水難除け、海上・交通安全、大漁満足・商売繁盛

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波止場神社(はとばじんじゃ)は、大分県別府市元町にある神社。近代社格では無格社。御朱印の有無は不明。
御祭神は、大物主命・気長足姫命・倉稲魂命・菅原神・市杵島姫命・三筒男命・事代主命。七福神にならって海に関係する神々を7柱集めたとされ、「七社」とも呼ばれる。
近隣では近年まで「金毘羅様」と呼ばれていた。また、元西鉄ライオンズの稲尾和久の生家に近いことから「稲尾神社」とも呼ばれた。
明治3年(1870年)2月に着工した旧別府港(楠港)の安全と発展を祈願して、当時、日田県知事であった松方正義によって同年6月に創建された。
その鎮座祭に配られた記念の扇面には当時の新波止場や流川、松林に家並などの漁村風景が描かれている。扇の裏面には「港の左右の干潟に出湯があり、海内稀なる潮湯泉にてもろもろの病を治す」と記されている。
社殿の完成は明治7年(1874年)。拝殿は入母屋造桟瓦葺妻入り。梁間3間、桁行2間の吹放しで、正面には「波止場神社」と松方正義の書になる木彫りの額が掲げられている。
向拝の木鼻や手挟みには波の紋様が刻まれ、格天井には明治4年(1871年)、駐春園主人嶋石生の手になる花鳥、十二支が描かれている。
本殿は1間社流造桟瓦葺で彩色され、拝殿につながっている。明治40年(1907年)には社地の整備が行われ、玉垣が造られるとともに、鳥居が寄進された。
大正元年(1912年)には、当時の別府町長であった吉田嘉一郎によって、境内に「別府築港之碑」が建立された。この碑も、松方正義が揮毫したもの。
それによれば、総工費2万両、東西100間、南北80間の防波堤を築き、明治6年(1873年)初めて汽船「益丸」が就航したとある。
ちなみに、松方正義は大正13年(1924年)、日田市の日隈神社の境内に生祠が設けられ、松方神社と呼ばれたが、戦後に廃絶した。現在も跡地を示す石碑が建つ。
戦後、荒廃し祭礼も廃れたが、昭和48年(1973年)に夏祭りが復活した。
【ご利益】
水難除け、海上・交通安全、大漁満足・商売繁盛

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