岡豊城跡近く、長宗我部氏の崇敬社、神職家は大和三輪からの移住者
[住所]高知県南国市岡豊町八幡1022
[電話]088-880-6569
岡豊別宮八幡宮(おこうべっくはちまんぐう)は、高知県南国市岡豊町八幡にある神社。岡豊城跡のすぐ北の山頂に鎮座する。御朱印の有無は不明。
長宗我部元親の信仰が厚く、出陣の際には必ずここで戦勝を祈願したと伝えられる。高知市にも、やはり元親が頻繁に戦勝を祈願したと伝わる若宮八幡宮がある。
かつては長宗我部氏ゆかりの品を多く所蔵していたが、大正年間(1912年-1926年)の大火で大半が焼失したという。
現在は元親が画工真重に命じて作らせたという三十六歌仙の画額14枚と、出陣の際使用したと伝えられる熊蜂の盃があるのみ。ともに県立歴史民俗資料館が保管している。
当宮の宮司谷氏の祖である大神氏は、大和国三輪山(大神神社)から土佐に移り、その子孫は谷左近、谷秦山、谷干城など土佐の名族に発展したという。
当社を土佐国分寺の守護神、いわゆる国分八幡宮とする説がある。当社は、土佐国分寺の西方に位置し、国分寺もやはり元親による再建が伝わっている。
当社の創祀に関しては資料が少ないものの、神職家が大和国からの移住であれば、相当遡ることが考えられる。
少なくとも岡豊城が築城されたとされる13世紀から14世紀よりも、また長宗我部氏が土佐に移住してきた鎌倉時代初期よりも、それらより以前が濃厚。
土佐はそもそも大和国との関係が深く、土佐国一宮の土佐神社も、なぜか大和国に関係が深い御祭神が祀られている。式内の古社・大川上美良布神社も三輪山と関わりの深い神々を祀る。
現在、土佐国総社の総社も、土佐国分寺近くに鎮座しており、土佐国の国府址である南国市比江からも、当社はそう遠くはない。
土佐国の一国一社の八幡宮、いわゆる国府八幡宮は不詳だが、当社の由緒次第では、当社がそれを兼ねていた可能性がある。
【ご利益】
武運長久・勝運、諸願成就
【関連記事】
・国府八幡宮とは? - 一国一社の八幡宮、各国の国府や国分寺の鎮守・守護神としての八幡
・高知県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、高知県に鎮座している神社の一覧
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岡豊別宮八幡宮(おこうべっくはちまんぐう)は、高知県南国市岡豊町八幡にある神社。岡豊城跡のすぐ北の山頂に鎮座する。御朱印の有無は不明。
長宗我部元親の信仰が厚く、出陣の際には必ずここで戦勝を祈願したと伝えられる。高知市にも、やはり元親が頻繁に戦勝を祈願したと伝わる若宮八幡宮がある。
かつては長宗我部氏ゆかりの品を多く所蔵していたが、大正年間(1912年-1926年)の大火で大半が焼失したという。
現在は元親が画工真重に命じて作らせたという三十六歌仙の画額14枚と、出陣の際使用したと伝えられる熊蜂の盃があるのみ。ともに県立歴史民俗資料館が保管している。
当宮の宮司谷氏の祖である大神氏は、大和国三輪山(大神神社)から土佐に移り、その子孫は谷左近、谷秦山、谷干城など土佐の名族に発展したという。
当社を土佐国分寺の守護神、いわゆる国分八幡宮とする説がある。当社は、土佐国分寺の西方に位置し、国分寺もやはり元親による再建が伝わっている。
当社の創祀に関しては資料が少ないものの、神職家が大和国からの移住であれば、相当遡ることが考えられる。
少なくとも岡豊城が築城されたとされる13世紀から14世紀よりも、また長宗我部氏が土佐に移住してきた鎌倉時代初期よりも、それらより以前が濃厚。
土佐はそもそも大和国との関係が深く、土佐国一宮の土佐神社も、なぜか大和国に関係が深い御祭神が祀られている。式内の古社・大川上美良布神社も三輪山と関わりの深い神々を祀る。
現在、土佐国総社の総社も、土佐国分寺近くに鎮座しており、土佐国の国府址である南国市比江からも、当社はそう遠くはない。
土佐国の一国一社の八幡宮、いわゆる国府八幡宮は不詳だが、当社の由緒次第では、当社がそれを兼ねていた可能性がある。
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