弓矢の神とも、奈良期再建の古社、信濃国国分寺に隣接する守護神
[住所]長野県上田市国分1166
[電話]-
国分神社(こくぶじんじゃ)は、長野県上田市国分にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。
創祀年代は不詳。奈良時代の天平年間(729年-749年)、信濃国国分寺創建と同じ頃の創祀、あるいは再建と伝えられる古社である。国分寺の守護神である国分八幡宮。
御祭神は応神天皇で、もともとは八幡社を称し、現在も通称は八幡さま。国分寺・堀・上沢三村の産土神として崇敬されている。
国分寺創建に先立つ古代、当地に弓削(弓作り)の専門集団が居住しており、弓矢の神として、(再建前の?)当社を崇敬していたと伝わる。
『続日本紀』には、大宝2年(702年)に信濃国から梓弓一千張が献上されたとあることとの関連を指摘する向きがある。
当社最寄りの信濃国分寺駅の近く、18号線の南側に信濃国分寺跡・信濃国分尼寺跡がある。東に国分寺、西に国分尼寺があったという。
双方とも150メートル四方の寺域を有する巨大なもの。
この信濃国国分寺の守護神と位置付けられたが、天慶2年(939年)の平将門の乱(天慶の乱)により国分寺が焼失し、移転。
その後、律令制度の崩壊にともない、国の保護を失った国分寺は衰退した。当社も同じ歩みをたどったものと思われる。
鎌倉時代になり、源頼朝が建久8年(1197年)に国分寺を再建、復興した。これが現在も続く信濃国分寺(八日堂)である。これにともない、当社社殿も再建され、一時は社領30石を有す強盛を示したという。
しかし江戸時代の元和年間(1615年-1624年)には社家が途絶えて衰微。
国分寺守護の国分八幡宮。明治6年(1873年)4月に郷社に列し、明治11年(1878年)8月、八幡社から現社号に改称した。本殿西側に境内社の三峯神社がある。
ちなみにし、信濃国には国府の守護神であり、一国一社の八幡宮、いわゆる国府八幡宮が松本市の筑摩神社。国府と国分寺の守護神が明確に分かれはっきりしている珍しい例だと言える。
【ご利益】
厄災除け、地域・家内安全
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国分神社(こくぶじんじゃ)は、長野県上田市国分にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。
創祀年代は不詳。奈良時代の天平年間(729年-749年)、信濃国国分寺創建と同じ頃の創祀、あるいは再建と伝えられる古社である。国分寺の守護神である国分八幡宮。
御祭神は応神天皇で、もともとは八幡社を称し、現在も通称は八幡さま。国分寺・堀・上沢三村の産土神として崇敬されている。
国分寺創建に先立つ古代、当地に弓削(弓作り)の専門集団が居住しており、弓矢の神として、(再建前の?)当社を崇敬していたと伝わる。
『続日本紀』には、大宝2年(702年)に信濃国から梓弓一千張が献上されたとあることとの関連を指摘する向きがある。
当社最寄りの信濃国分寺駅の近く、18号線の南側に信濃国分寺跡・信濃国分尼寺跡がある。東に国分寺、西に国分尼寺があったという。
双方とも150メートル四方の寺域を有する巨大なもの。
この信濃国国分寺の守護神と位置付けられたが、天慶2年(939年)の平将門の乱(天慶の乱)により国分寺が焼失し、移転。
その後、律令制度の崩壊にともない、国の保護を失った国分寺は衰退した。当社も同じ歩みをたどったものと思われる。
鎌倉時代になり、源頼朝が建久8年(1197年)に国分寺を再建、復興した。これが現在も続く信濃国分寺(八日堂)である。これにともない、当社社殿も再建され、一時は社領30石を有す強盛を示したという。
しかし江戸時代の元和年間(1615年-1624年)には社家が途絶えて衰微。
国分寺守護の国分八幡宮。明治6年(1873年)4月に郷社に列し、明治11年(1878年)8月、八幡社から現社号に改称した。本殿西側に境内社の三峯神社がある。
ちなみにし、信濃国には国府の守護神であり、一国一社の八幡宮、いわゆる国府八幡宮が松本市の筑摩神社。国府と国分寺の守護神が明確に分かれはっきりしている珍しい例だと言える。
【ご利益】
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