丹波国分寺の守護神? 足利尊氏が倒幕挙兵と再起祈願、旧村社どまり
[住所]京都府亀岡市篠町篠八幡裏4
[電話]0771-24-6395
篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう)は、京都府亀岡市にある神社。足利尊氏の倒幕挙兵地として知られる。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
社伝や本殿の棟札によれば、平安時代の延久3年(1071年)に勅宣によって源頼義が誉田八幡宮から勧請し創建したとされる。主祭神は誉田別命、合祀神が仲哀天皇・神功皇后。
延久4年(1072年)5月13日付の頼義の社領寄進状も現存する。篠村の荘園は藤原氏によって開かれたものであったが、いつの頃からか源氏が相伝することになり、その荘園に勧請されたもの。
同市千歳町の丹波国国分寺とは多少距離があるが、国分寺の守護神ともされる場合がある。丹波国は一国一社の八幡宮、いわゆる国府八幡宮が不明であるため、当社がそれを兼ねた可能性もある。
当地は足利高氏、後の尊氏が鎌倉幕府打倒の挙兵をした地として知られ、市指定史跡にも指定されている。
高氏は元弘3年(1333年)4月29日に当宮に戦勝祈願の願文を奉じ、10日間滞在した後、六波羅探題を滅ぼして建武中興の礎を築いた。
また後醍醐天皇と決別した後、建武3年(1336年)1月30日に京都攻防戦で敗れたため、2月1日まで当宮で敗残の味方の兵を集めるとともに社領を寄進して再起祈願を行なった。
その後尊氏は九州へ逃れ、体勢を立て直すと京都に戻り室町幕府を開くこととなる。
以上の当宮への祈願の様子は、『梅松論』『太平記』『難太平記』に記されている。現在も高氏(尊氏)旗揚げの願文(府指定文化財)や御判御教書(寄進状)が伝わるほか、境内には矢塚や旗立楊が残されている。
貞和5年(1349年)8月10日に尊氏自身が当社にお礼参りし、歴代足利将軍からも多くの社領を寄進され、盛時にはその社域は篠の東西両村に渡ったという。
この頃、別当職は醍醐寺三宝院門跡が務めていた。しかし、後の応仁の乱や明智光秀の丹波侵攻によって社殿・社域の多くを失ったという。
江戸時代に入り、寛永年間(1624年-1643年)、亀山城主菅沼定芳によって本殿が改修され、以後亀山城主の直轄神社として庇護された。
明治になり、社格は村社にとどまっている。氏子などの規模にも左右されるものの、由緒から考えれば、少なくとも郷社、さらには府社も考えられたが、反逆・逆賊などという尊氏の戦前の評価に左右されたか。
9月第3日曜日に放生会が行われるほか、10月25日が秋季例大祭。1月19日に乾疫神社大祭 が斎行される。
境内社として、乾疫神社(建速須佐之男神・大己貴神・少彦名神)、稲荷神社、祖霊社、祓戸社、小宮社四社、秋葉神社・愛宕神社、住吉神社・春日神社・日吉神社、皇大神宮・豊受大神、天満宮がある。
足利尊氏が奉納したと伝わる、白糸褄取威大鎧(兜・袖欠)と黒韋腰白威筋兜は現在、米ニューヨークにあるメトロポリタン美術館に所蔵されている。
【ご利益】
武運長久・勝運、再起、厄災除け
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[電話]0771-24-6395
篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう)は、京都府亀岡市にある神社。足利尊氏の倒幕挙兵地として知られる。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
社伝や本殿の棟札によれば、平安時代の延久3年(1071年)に勅宣によって源頼義が誉田八幡宮から勧請し創建したとされる。主祭神は誉田別命、合祀神が仲哀天皇・神功皇后。
延久4年(1072年)5月13日付の頼義の社領寄進状も現存する。篠村の荘園は藤原氏によって開かれたものであったが、いつの頃からか源氏が相伝することになり、その荘園に勧請されたもの。
同市千歳町の丹波国国分寺とは多少距離があるが、国分寺の守護神ともされる場合がある。丹波国は一国一社の八幡宮、いわゆる国府八幡宮が不明であるため、当社がそれを兼ねた可能性もある。
当地は足利高氏、後の尊氏が鎌倉幕府打倒の挙兵をした地として知られ、市指定史跡にも指定されている。
高氏は元弘3年(1333年)4月29日に当宮に戦勝祈願の願文を奉じ、10日間滞在した後、六波羅探題を滅ぼして建武中興の礎を築いた。
また後醍醐天皇と決別した後、建武3年(1336年)1月30日に京都攻防戦で敗れたため、2月1日まで当宮で敗残の味方の兵を集めるとともに社領を寄進して再起祈願を行なった。
その後尊氏は九州へ逃れ、体勢を立て直すと京都に戻り室町幕府を開くこととなる。
以上の当宮への祈願の様子は、『梅松論』『太平記』『難太平記』に記されている。現在も高氏(尊氏)旗揚げの願文(府指定文化財)や御判御教書(寄進状)が伝わるほか、境内には矢塚や旗立楊が残されている。
貞和5年(1349年)8月10日に尊氏自身が当社にお礼参りし、歴代足利将軍からも多くの社領を寄進され、盛時にはその社域は篠の東西両村に渡ったという。
この頃、別当職は醍醐寺三宝院門跡が務めていた。しかし、後の応仁の乱や明智光秀の丹波侵攻によって社殿・社域の多くを失ったという。
江戸時代に入り、寛永年間(1624年-1643年)、亀山城主菅沼定芳によって本殿が改修され、以後亀山城主の直轄神社として庇護された。
明治になり、社格は村社にとどまっている。氏子などの規模にも左右されるものの、由緒から考えれば、少なくとも郷社、さらには府社も考えられたが、反逆・逆賊などという尊氏の戦前の評価に左右されたか。
9月第3日曜日に放生会が行われるほか、10月25日が秋季例大祭。1月19日に乾疫神社大祭 が斎行される。
境内社として、乾疫神社(建速須佐之男神・大己貴神・少彦名神)、稲荷神社、祖霊社、祓戸社、小宮社四社、秋葉神社・愛宕神社、住吉神社・春日神社・日吉神社、皇大神宮・豊受大神、天満宮がある。
足利尊氏が奉納したと伝わる、白糸褄取威大鎧(兜・袖欠)と黒韋腰白威筋兜は現在、米ニューヨークにあるメトロポリタン美術館に所蔵されている。
【ご利益】
武運長久・勝運、再起、厄災除け
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