小倉最古の社、壇ノ浦の神宝発見祈願、歴代領主からの崇敬
[住所]福岡県北九州市小倉南区蒲生5-6
[電話]093-962-6327
蒲生八幡神社(かもうはちまんじんじゃ)は、福岡県北九州市小倉南区にある神社。八幡神を祀る八幡宮・八幡神社の一つで、小倉で最古の歴史を有する神社という。近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
往昔、蒲生村虹山(巣山)の峯に多紀理比売命・多岐都比売命・市寸島比売命の宗像三女神が天降り、「我、永く此地を守らん」と告げた。
そこで、里人は紫の池の辺に多紀理比売命を祀り、虹山の山頂に多岐都比売命を祀り(蒲生宮)、紫の池の北に市寸島比売命を祀った。
後に、蒲生宮に応神天皇・神功皇后を祀り、蒲生八幡宮とした。
元暦元年(1184年)に壇ノ浦の戦いで平氏が敗戦。安徳天皇は入水し、三種の神器も海中に沈む。源頼朝はこのことに嘆き、規矩郡(企救郡)高浜浦の漁人の長、岩松与三に神器を探し出すよう命じた。
岩松は当宮に神器発見・安全を祈願した後に海に入り、鏡と勾玉を網に得て、頼朝に献上した。岩松はこの功績により、規矩一郡を与えられるが、当宮の御神徳に感謝して、一郡すべてを寄進したという。
鎌倉時代末期から南北朝時代の元弘・正慶・建武年間(1331年-1336年)、虹山城主規矩氏の崇敬を受け、多くの神領が寄進された。
南北朝時代が終わった室町時代、応永年間(1394年-1428年)には、規矩親忠が神殿を建立。大永2年(1522年)4月に小倉城主小野田種尚より、規矩郡大野庄平田二反が寄進された。
天正年間(1573年-1593年)初期、大友宗麟の兵火に罹り焼失。このことを憂いた、岩松弥兵衛(三郎兵衛)は高浜(現 井筒屋付近)に神社を造立し、社号を規矩(企救)八幡宮(高浜八幡宮)とした。
小倉城主高橋鑑種が社殿を造営し、鳥居を建立した。天正年間、小倉城主毛利成儀(勝信)からも篤い崇敬を受けた。
慶長7年(1602年)、小倉城築城に伴い、細川忠興は神社が鎮座する高浜を東曲輪とするために、規矩八幡宮をもとの蒲生の地(中島山)に遷し、再び蒲生八幡宮に復した。現在は、父の細川幽斎や忠興も奉斎されている。
寛永9年(1632年)に入国した小笠原藩からも篤い崇敬を受け、社殿造営などがなされた。
社殿建築 御幣殿は北九州市で最古であり、本殿は旧豊前国で最古。市の有形文化財に指定されている。
例祭は10月第1土・日曜日で、秋季例大祭。土曜日の夜が前夜祭で各種イベントが開催され、日曜日の当日には神幸祭、子供神興がある。毎年1月の成人の日にはどんど焼きがある。
節分祭には巨大なお多福門が設置されることでも知られる。
中世以来、小倉一円の産土神となり、現在も氏子の多さは県下屈指とされる。その範囲は近郷のほか、小倉中心街にまでわたる。特に、厄祓い・厄除の信仰を集める。
兼務神社に、小倉北区船場町鎮座し、小倉発祥の地とされる瑜伽神社、小倉北区長浜に鎮座し、細川忠興から小笠原家に譲られ、400年以上の歴史をもつ神輿が残る貴布祢神社、小倉南区長尾に鎮座し、小倉地区祇園祭発祥の社で、小倉城下八坂神社の本宮である祇園社などがある。
【ご利益】
厄災除け、安産、交通安全、家内安全、学業・受験合格など

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蒲生八幡神社(かもうはちまんじんじゃ)は、福岡県北九州市小倉南区にある神社。八幡神を祀る八幡宮・八幡神社の一つで、小倉で最古の歴史を有する神社という。近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
往昔、蒲生村虹山(巣山)の峯に多紀理比売命・多岐都比売命・市寸島比売命の宗像三女神が天降り、「我、永く此地を守らん」と告げた。
そこで、里人は紫の池の辺に多紀理比売命を祀り、虹山の山頂に多岐都比売命を祀り(蒲生宮)、紫の池の北に市寸島比売命を祀った。
後に、蒲生宮に応神天皇・神功皇后を祀り、蒲生八幡宮とした。
元暦元年(1184年)に壇ノ浦の戦いで平氏が敗戦。安徳天皇は入水し、三種の神器も海中に沈む。源頼朝はこのことに嘆き、規矩郡(企救郡)高浜浦の漁人の長、岩松与三に神器を探し出すよう命じた。
岩松は当宮に神器発見・安全を祈願した後に海に入り、鏡と勾玉を網に得て、頼朝に献上した。岩松はこの功績により、規矩一郡を与えられるが、当宮の御神徳に感謝して、一郡すべてを寄進したという。
鎌倉時代末期から南北朝時代の元弘・正慶・建武年間(1331年-1336年)、虹山城主規矩氏の崇敬を受け、多くの神領が寄進された。
南北朝時代が終わった室町時代、応永年間(1394年-1428年)には、規矩親忠が神殿を建立。大永2年(1522年)4月に小倉城主小野田種尚より、規矩郡大野庄平田二反が寄進された。
天正年間(1573年-1593年)初期、大友宗麟の兵火に罹り焼失。このことを憂いた、岩松弥兵衛(三郎兵衛)は高浜(現 井筒屋付近)に神社を造立し、社号を規矩(企救)八幡宮(高浜八幡宮)とした。
小倉城主高橋鑑種が社殿を造営し、鳥居を建立した。天正年間、小倉城主毛利成儀(勝信)からも篤い崇敬を受けた。
慶長7年(1602年)、小倉城築城に伴い、細川忠興は神社が鎮座する高浜を東曲輪とするために、規矩八幡宮をもとの蒲生の地(中島山)に遷し、再び蒲生八幡宮に復した。現在は、父の細川幽斎や忠興も奉斎されている。
寛永9年(1632年)に入国した小笠原藩からも篤い崇敬を受け、社殿造営などがなされた。
社殿建築 御幣殿は北九州市で最古であり、本殿は旧豊前国で最古。市の有形文化財に指定されている。
例祭は10月第1土・日曜日で、秋季例大祭。土曜日の夜が前夜祭で各種イベントが開催され、日曜日の当日には神幸祭、子供神興がある。毎年1月の成人の日にはどんど焼きがある。
節分祭には巨大なお多福門が設置されることでも知られる。
中世以来、小倉一円の産土神となり、現在も氏子の多さは県下屈指とされる。その範囲は近郷のほか、小倉中心街にまでわたる。特に、厄祓い・厄除の信仰を集める。
兼務神社に、小倉北区船場町鎮座し、小倉発祥の地とされる瑜伽神社、小倉北区長浜に鎮座し、細川忠興から小笠原家に譲られ、400年以上の歴史をもつ神輿が残る貴布祢神社、小倉南区長尾に鎮座し、小倉地区祇園祭発祥の社で、小倉城下八坂神社の本宮である祇園社などがある。
【ご利益】
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