大伴氏が始祖の道臣命を奉斎した「岡の里」、徳川吉宗ゆかり「拾い親」
[住所]和歌山県和歌山市片岡町2-9
[電話]073-422-6576
刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)は、和歌山県和歌山市片岡町にある神社。例祭は10月17日。参拝すれば、御朱印を頂ける。オリジナルの御朱印帳がある。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 紀伊国 名草郡「刺田比古神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
御祭神は道臣命と大伴佐氐比古命。社伝では、道臣命十世孫、大伴金村の子である大伴佐氐比古命が功により当地「岡の里」を授かり、代々治めた。
大伴佐氐比古命は大伴狭手彦として、兵庫県たつの市誉田町の阿宗神社を創建している。
その後、二十世孫の大伴武持が当地に住むにあたって、この地に祖神を祀ったのが創祀。道臣命を祀る神社としては他に、大阪府藤井寺市に伴林氏神社がある。
里人はそれを「国主ノ神」「大国主神」として祀ったという。「岡の宮」の別称もこれにちなむ。
一説には聖武天皇岡の東離宮跡とも伝えられる。境内南西側の山の斜面に「岡の里古墳」があり、当社との関連が指摘されている。
社伝によると、大伴武持二十八世孫の岡本武秀が初めて岡山城(現 和歌山市)を築くにあたって、神田を寄付し城の氏神として崇敬したという。その後は、南北朝時代の争乱などで荒廃した。
『紀伊続風土記』によると、嘉吉年間(1441年-1443年)に氏子が再興、国主神社と呼び崇敬したという。
天正年間(1573年-1593年)、和歌山城代の桑山重晴が社殿を修復。豊臣秀吉は和歌山城を築く際にその鎮護の神として当社を重要視したとされる。
秀吉が社司に定めた岡本氏が現在も当社の神官家。文禄3年(1594年)には境内が現在地に移された。
江戸時代には、徳川頼宣は和歌山城鎮護の神として神社を再興。また、徳川吉宗は当社を産土神として崇め、正徳2年(1712年)に神田10石を寄進。
さらに吉宗は、神社境内の殺生を禁じ、黄金装飾の太刀 銘光世(旧国宝・焼失)、神馬一頭を献じ、永く国家安泰の祈願社とした。
年に1万回の国家安泰の祓を命じ、当社神主は3年に一度江戸に行き将軍に拝謁、代替・継目などの際には江戸で拝謁する例となった。
現在では「吉宗公拾い親神社」とされ、吉宗とのゆかりが深い神社として知られる。
将軍家と縁深いということは当時大きなメリットであり、文化8年(1811年)の『紀伊国名所図会』には名所の冒頭に当社が紹介され、当時の境内が描かれている。
明治に入り、明治6年(1873年)4月に県社に列した。その後、太平洋戦争の戦災により先の吉宗寄進の太刀 銘光世を含め、社殿・宝物・古記録を焼失。
摂社に、八幡社(応神天皇)・氷川社(須佐之男命)がある。末社に、稲荷社3社(宇賀魂命)、金毘羅社(大物主命)、宇須売社(宇須売命)、弁財天社(市杵島姫命)、春日社(健甕槌命・伊波比主命・天児屋根命・比売神)、天満社(菅原道真公)などがある。
【ご利益】
必勝祈願・厄災除け・交通安全・家内安全(公式HP)
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[電話]073-422-6576
刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)は、和歌山県和歌山市片岡町にある神社。例祭は10月17日。参拝すれば、御朱印を頂ける。オリジナルの御朱印帳がある。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 紀伊国 名草郡「刺田比古神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
御祭神は道臣命と大伴佐氐比古命。社伝では、道臣命十世孫、大伴金村の子である大伴佐氐比古命が功により当地「岡の里」を授かり、代々治めた。
大伴佐氐比古命は大伴狭手彦として、兵庫県たつの市誉田町の阿宗神社を創建している。
その後、二十世孫の大伴武持が当地に住むにあたって、この地に祖神を祀ったのが創祀。道臣命を祀る神社としては他に、大阪府藤井寺市に伴林氏神社がある。
里人はそれを「国主ノ神」「大国主神」として祀ったという。「岡の宮」の別称もこれにちなむ。
一説には聖武天皇岡の東離宮跡とも伝えられる。境内南西側の山の斜面に「岡の里古墳」があり、当社との関連が指摘されている。
社伝によると、大伴武持二十八世孫の岡本武秀が初めて岡山城(現 和歌山市)を築くにあたって、神田を寄付し城の氏神として崇敬したという。その後は、南北朝時代の争乱などで荒廃した。
『紀伊続風土記』によると、嘉吉年間(1441年-1443年)に氏子が再興、国主神社と呼び崇敬したという。
天正年間(1573年-1593年)、和歌山城代の桑山重晴が社殿を修復。豊臣秀吉は和歌山城を築く際にその鎮護の神として当社を重要視したとされる。
秀吉が社司に定めた岡本氏が現在も当社の神官家。文禄3年(1594年)には境内が現在地に移された。
江戸時代には、徳川頼宣は和歌山城鎮護の神として神社を再興。また、徳川吉宗は当社を産土神として崇め、正徳2年(1712年)に神田10石を寄進。
さらに吉宗は、神社境内の殺生を禁じ、黄金装飾の太刀 銘光世(旧国宝・焼失)、神馬一頭を献じ、永く国家安泰の祈願社とした。
年に1万回の国家安泰の祓を命じ、当社神主は3年に一度江戸に行き将軍に拝謁、代替・継目などの際には江戸で拝謁する例となった。
現在では「吉宗公拾い親神社」とされ、吉宗とのゆかりが深い神社として知られる。
将軍家と縁深いということは当時大きなメリットであり、文化8年(1811年)の『紀伊国名所図会』には名所の冒頭に当社が紹介され、当時の境内が描かれている。
明治に入り、明治6年(1873年)4月に県社に列した。その後、太平洋戦争の戦災により先の吉宗寄進の太刀 銘光世を含め、社殿・宝物・古記録を焼失。
摂社に、八幡社(応神天皇)・氷川社(須佐之男命)がある。末社に、稲荷社3社(宇賀魂命)、金毘羅社(大物主命)、宇須売社(宇須売命)、弁財天社(市杵島姫命)、春日社(健甕槌命・伊波比主命・天児屋根命・比売神)、天満社(菅原道真公)などがある。
【ご利益】
必勝祈願・厄災除け・交通安全・家内安全(公式HP)
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