宇田森に鎮座する、紀伊国に木種をもたらした伊太祁曽三神の一柱の女神
大屋都姫神社(和歌山県和歌山市宇田森59)
[住所]和歌山県和歌山市宇田森59
[電話]073-461-6494

大屋都姫神社(おおやつひめじんじゃ)は、和歌山県和歌山市宇田森にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 紀伊国 名草郡「大屋都比売神社」に比定される式内社(名神大社・月次新嘗)。近代社格では県社

創建は不詳。主祭神は社号の通り大屋都姫命。左脇宮には兄神である五十猛命、右脇宮には妹神である都麻都姫命を配祀する。3神の父は素戔嗚尊であり、紀伊国には須佐神社がある。

五十猛命を御祭神とする伊太祁曽神社、都麻都姫命を御祭神とする都麻都比売神社(論社:禰宜吉礼平尾)とあわせて、『日本書紀』にあるこれら3神は、紀伊国に木種をもたらした神で、伊太祁曽三神と総称される。

社伝によれば、当初はもとは日前神宮・國懸神宮(和歌山市秋月)の地に祀られていたが、第11代垂仁天皇16年に両神宮に社地を譲って山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へと遷座したという。

その後『続日本紀』の記す大宝2年(702年)の伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売3社の分遷で、亥の森から現社地北方の古宮(和歌山市北野の御祓山上)の地に遷座、のち現在地に移転した。

また『続風土記』では、伊太祁曽三神が天浮橋(天上界の橋)からそれぞれの鎮座する地を選定して各所へ天降ることとなったが、大屋都姫命は平田郷を選んで降臨、そこに宮殿を営んで鎮座することとなったとする別伝を載せる。

当社の社叢が宇田森と呼ばれたことから、現在まで地名が残るとされる。当社との関係は不明ながら、社地東方には弥生時代中期の環濠集落跡と見られる宇田森遺跡がある。

『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒では、紀伊国の大屋津比売神に対して7戸の神戸が給されている。承平年間(931年-938年)頃の『和名類聚抄』では紀伊国名草郡に「大屋郷」が重複して掲載される。

神階としては、貞観元年(859年)に伊太祁曽神・都麻都比売神とともに従四位下に昇った。『紀伊国神名帳』では天神として「従四位上 大屋大神」と記載されるが、正一位に昇った伊太祁曽大神とは神階が開いた。

平安時代の寛治2年(1088年)4月、堀河天皇の熊野行幸に際して奉幣があり、長治元年(1104年)には18町歩(約22ヘクタール)の神田と5町四面(約30ヘクタール)の社地の寄進も受けた。

戦国時代、大永年間(1521年-1527年)の大乱や天正年間(1573年-1593年)の豊臣秀吉の紀州攻めに罹ってから衰微。近世には神田2町(約2ヘクタール)を有していた。

明治6年(1873年)4月に村社に列し、明治13年(1880年)には県社に昇格した。また明治44年(1911年)には、和歌山市北字宮ノ後にあった村社総社神社(御祭神不詳。日本武尊とも)を合祀した。

この「総社大明神」とも称された総社神社は鎮座地が紀伊国府の推定地に近いこともあって、社名から、紀伊国の総社だったのではないかとされる場合がある。他の論社に府守神社がある。

社殿は、中央の本殿が王子造銅板葺で向拝を軒唐破風とし、身舎の棟に内削ぎの千木と鰹木を置く。左脇宮の千木は外削ぎ、右脇宮の千木は内削ぎと、男女神で千木に変化を見せている。

現在の例祭は10月21日。『紀伊続風土記』では、かつては旧暦6月1日と9月21日の祭礼で流鏑馬に猿楽や田楽が催されたという。

また、旧暦10月末日と11月16日の祭礼では伊太祁曽神社の社人が奉仕するといい、10月は小豆飯や柿餅・魚・酒などを供え、11月は伊太祁曽神社の神輿が当社へ渡御したという。

【ご利益】
住宅・船・車・木具・薪・炭など木製品の守護神
大屋都姫神社 - 宇田森に鎮座する、紀伊国に木種をもたらした伊太祁曽三神の一柱の女神
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