信玄が京都伏見を勧請した稲荷、田中城鎮守、明治期に家康を奉斎
[住所]静岡県藤枝市花倉332
[電話]054-638-0252
田中神社(たなかじんじゃ)は、静岡県藤枝市花倉にある神社。近代社格では村社。全国東照宮連合会に加盟している。御朱印の有無は不明。
室町時代末期、戦国時代の永禄13年(1570年)、駿河に侵攻した甲斐の武田信玄が、駿河今川氏配下の長谷川紀伊守正長が立て籠もる徳之一色城を包囲し、開城降伏させた。
信玄は、家臣馬場信春に徳之一色城を修築させて、田中城と改称した。
元亀年間(1570年-1573年)、京都稲荷山(伏見稲荷大社)より宇迦御魂神を勧請し、守護神として田中城本丸に稲荷社を創建した。
宇迦御魂神は通称お稲荷様として、家運隆盛・五穀豊穣・商売繁盛に御利益がある神として信仰を集めた。
享保15年(1730年)、本多正矩が4万石で封じられ、本多家の崇敬社となる。江戸時代の毎年2月初午の例祭では、城中に領民を入れて神酒を賜ったといわれている。
明治時代になると、江戸から移住した旧幕臣が徳川家康を御祭神とする権現社を創建した。明治8年(1875年)6月、稲荷社と権現社を合祀して現社号に改称、村社に列した。
明治23年(1890年)3月、田中2番町(現 大手2町目)に遷座、明治40年9月(1907年)に神饌幣帛料供進社に指定され、大正2年(1913年)、現在地に移った。
郷社に昇格する準備が進められたが、かなわなかった。境内には、東照公御遺訓の碑や、旧益津村戦没者慰霊碑がある。境内社が一つ、不詳。
【ご利益】
家運隆盛・五穀豊穣・商売繁盛

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田中神社(たなかじんじゃ)は、静岡県藤枝市花倉にある神社。近代社格では村社。全国東照宮連合会に加盟している。御朱印の有無は不明。
室町時代末期、戦国時代の永禄13年(1570年)、駿河に侵攻した甲斐の武田信玄が、駿河今川氏配下の長谷川紀伊守正長が立て籠もる徳之一色城を包囲し、開城降伏させた。
信玄は、家臣馬場信春に徳之一色城を修築させて、田中城と改称した。
元亀年間(1570年-1573年)、京都稲荷山(伏見稲荷大社)より宇迦御魂神を勧請し、守護神として田中城本丸に稲荷社を創建した。
宇迦御魂神は通称お稲荷様として、家運隆盛・五穀豊穣・商売繁盛に御利益がある神として信仰を集めた。
享保15年(1730年)、本多正矩が4万石で封じられ、本多家の崇敬社となる。江戸時代の毎年2月初午の例祭では、城中に領民を入れて神酒を賜ったといわれている。
明治時代になると、江戸から移住した旧幕臣が徳川家康を御祭神とする権現社を創建した。明治8年(1875年)6月、稲荷社と権現社を合祀して現社号に改称、村社に列した。
明治23年(1890年)3月、田中2番町(現 大手2町目)に遷座、明治40年9月(1907年)に神饌幣帛料供進社に指定され、大正2年(1913年)、現在地に移った。
郷社に昇格する準備が進められたが、かなわなかった。境内には、東照公御遺訓の碑や、旧益津村戦没者慰霊碑がある。境内社が一つ、不詳。
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