江戸前期創建の壮大な規模、被爆から復興、50年ごと「通り御祭礼」が復興
[住所]広島県広島市東区二葉の里2-1-18
[電話]082-261-2954

広島東照宮(ひろしまとうしょうぐう)は、広島県広島市東区にある神社。東照大権現(徳川家康)を祀る東照宮の一つで、全国東照宮連合会に加盟している。参拝すれば、御朱印を頂ける。

3代将軍徳川家光は日光東照宮を建立後、諸大名に東照宮の造営を勧め、浅野氏広島藩2代藩主浅野光晟は、生母である正清院(振姫)が家康の三女であることから特に造営に熱心で、正保3年(1646年)に着手、慶安元年(1648年)7月に竣工した。

藩主肝いりの壮麗な社殿群に加え、かつては、猿猴橋東詰の西国街道との交点からここの鳥居までの参道筋には約500メートル規模の並木が存在した。ただし、明治維新後、しばらく荒廃したが明治末期に再建されている。

太平洋戦争当時、南下の参道には東練兵場が広がり、境内には大日本帝国陸軍第二総軍通信隊の通信兵約20人が常駐していた。

また空襲の可能性が低い区域のため、民間だけではなく公共機関の避難所にも指定されていた。ただ、安全性が高いことから疎開しなかったため、社宝もそのまま置いていた。

昭和20年(1945年)8月6日被爆。当地は爆心地から約2.1キロに位置した。爆風により建物の瓦や天井が吹き飛び北方に傾き、石造の鳥居が跡かたもなく吹き飛ばされた。

熱風によりまず拝殿から出火し、瑞垣や本殿、神馬舎へ延焼した。その後も被害が広がりつつあったが通信兵の手により更なる延焼から免れ全焼は回避された。参道は全滅、後年の道路改良により道筋自体が変わった。

社宝は大部分が消失した。同日、市内の被爆者が多数避難してきて大混乱となった。境内南下に臨時救護所が設けられ、通信兵や陸海軍救護隊や民間の医療救護班によって治療活動が行われ、特に重傷者は近くの国前寺へと運ばれた。

幟町(現 広島市中区)の実家で被爆した作家・原民喜は7日夜、親族とともに当社境内の避難所で野宿して覚書(「原爆被災時のノート」)を記し、後日それをもとに小説『夏の花』を執筆した。

翌年昭和21年(1946年)3月頃から境内を片付けはじめ、境内の半焼松材や市内の不要となった電柱を使って、仮拝所が設けられた。

その後、1965年(昭和40年)、東照公350年祭を期に社殿を再建、昭和59年(1984年)に本殿および拝殿などを建て替えた。

平成20年(2008年)から平成23年(2011年)にかけて、被爆で傾いた、江戸期建立で市の重要文化財となっている唐門と翼廊を文化財建造物保存技術協会の指導のもと、保存修理工事が行われた。

唐門・翼廊と同時期の建立である手水舎・御供所・本地堂はそれ以前までに修理されていた。

往時は家康薨去後50年ごとに「通り御祭礼」が行われていた。文化12年(1815年)の200年祭以降は途絶していたが、当社創建350年を期に平成10年(1998年)11月8日に再現。400年祭にあたる、平成27年(2015年)10月10日に正式復興した。

例祭は、4月17日またはこれより前の日曜日が春季例祭で祈年祭・春祭り。10月17日またはこれより前の土・日曜日が秋季例祭で、新嘗祭・秋祭り。秋祭りには子供神楽共演会
正月は、1月1日にジャンボ釜ぞうに、1月7日に七草がゆ、1月15日近くの日曜日にとんど祭がある。

境内社に金光稲荷神社がある。

【ご利益】
事業成功、復興(公式HP
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広島東照宮の御朱印