奈良期創建、羽黒山に対して西羽黒、4月18日に獅子舞など油戸祭り
荒倉神社(山形県鶴岡市西目荒倉口38)
[住所]山形県鶴岡市西目38
[電話]-

荒倉神社(あらくらじんじゃ)は、山形県鶴岡市西目にある神社。標高307メートルの荒倉山の近くに鎮座する。近代社格では県社御朱印の有無は不明。

御祭神は、保食大神(うけもちのおおかみ)、大冝津比売神(おおげつひめのかみ)。一般的に、両者は同神とされる場合が多い。古伝によれば、大国主大神事代主神とも。境内社を合祀し、総称して荒倉大神と呼ばれる。

元正天皇の御代、奈良時代の養老元年(717年)に創立した。大和文化が北進し、荘内地方を平定して出羽の国が設置されてから5年後。

当時の信濃(長野県)・上野(群馬県)・越前(石川県)・越後(新潟県)より移住し、開拓に従事した者たちが農耕の守護神として祀ったといわれる。

それ以前は荒倉山自体がアラクラの神として信仰をあつめ、数々の伝説が残る。平安時代の弘仁元年(810年)、貞観12年(870年)に社殿が改修された。

平安末期には神仏習合により荒倉大権現と称するようになり、本地仏として聖観音を安置し、別当寺として観頂寺が建立され、荒倉山を治めた。

康平2年(1060年)に前九年の役に敗れた安倍貞任の一族、安倍孫太郎李任が荒倉山の別当となり、代々その職を継ぎ勢力が次第に強くなった。

中世、庄内を治めた武将、武藤氏の崇敬社となり、安倍氏はその臣下として広大な社領地を治め、領内には33の宿坊を構え、東の羽黒山に対し、西羽黒と称するようになった。

天正11年(1583年)、武藤義氏の家臣前森藏人が最上義光に通じ謀反を起こし、義氏は自害。側室のお鶴の方は難を逃れ、荒倉山に匿われた。

その後、武藤氏は復興を図り、義氏の弟義興が立つが最上氏に敗れ、庄内は最上領となる。その後、当社は最上氏からも崇敬されたが、豊臣秀吉により上杉領となる。

天正19年(1591年)、上杉氏の検地に反対した一揆が起こり、荒倉山もその一端をになったため、本社をはじめ、宿坊がことごとく破壊され、神領も没収される。

江戸時代になり、慶長6年(1601年)、再び最上氏の領となったため、当社復興が図られる。馬頭観音を祀り、次第に庄内の崇敬も回復したが、社殿復興には至らなかった。

元和8年(1622年)に最上氏は改易になると、庄内には酒井忠勝が信州松代より転封された。この時、別当職が佐藤刑部太夫に委ねられた。

刑部は明暦元年(1655年)、社殿の再建を行う。さらに安政2年(1855年)に現在の社殿が建立され、同年、神祇管領吉田家の執奏により、神階正一位の勅許があり、明治9年(1909年)、県社に列した。

例祭は4月18日。油戸祭りとも呼ばれる。獅子舞や子ども神輿が地区内を練り歩く。この獅子舞は、荒倉獅子舞とも呼ばれる。

この地区では上中下と組分けされ、毎年決められた組の中の1軒が当社の御祭神の御分霊を預かり、当屋と呼ばれる仮の神社となる。毎月18日には同地区の住民たちが当屋を参拝する。1年後の例祭の日に、当屋は交代する。

作者不明ながら、鎌倉後期から室町前期の作とされる石造聖観音像が県の指定有形文化財。明治の神仏分離に際し、密かに土中に埋蔵されたが、明治37年(1904年)に掘り起こされた。

境内社に、八雲神社・琴平神社・大鳥神社・皇大神社がある。

【ご利益】
五穀など食物・牛馬・蚕・動物の守護神、交通・航海安全、安産・縁結び
荒倉神社(鶴岡市) - 奈良期創建、羽黒山に対して西羽黒、4月18日に獅子舞など油戸祭り
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