古くから蝦夷の豪族が住居した、白鳥宮と呼ばれる名神大社
零羊崎神社(宮城県石巻市真野字内山18)
[住所]宮城県石巻市真野字内山18
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零羊崎神社(ひつじさきじんじゃ)は、宮城県石巻市真野にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「零羊埼神社(陸奥国・牡鹿郡)」に比定される式内社(名神大社)の論社。近代社格では村社。

御祭神は、豊玉姫命秋津彦命速秋津姫命。一部には、豊玉姫命と倉稲魂命としているものもある。例祭は旧暦9月9日。

創建年代は不詳。安永元年(1772年)の『封内風土記 巻之13』では、いつ勧請されたのか詳しからずと記されている。

別名は白鳥様とも呼ばれるが、白鳥宮のことで、日本武尊の伝承との兼ね合いや、7-8世紀のヤマト政権の日本統一の際の拠点とも考えられている。

近くの田道町遺跡からは延暦11年(792年)の銘を持つ「真野公」と墨書された出挙木簡が発見されている。真野公は蝦夷系の一族で、蝦夷の豪族とされており、当地一帯の開発の古さがうかがえる。

式内社「零羊崎神社」は『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日の条に「京畿七道諸神進階及新叙。惣二百六十七社」の一つとして神階が従四位下に昇叙されている。

『延喜式神名帳』以降、社名は見えなくなり、江戸時代になって比定論争が起こる。現在も決着はついていない。論社は他に、同市湊の牧山に同名神社がある。

江戸時代の説では、当社が荒廃したために牧山に神輿を移した、とか、逆に牧山が荒廃したために、当社に社殿が移された、などが見える。

別当は観寿院。どの説が正解なのか、よくは分からないが、牧山と当社の関係は、御祭神から見れば父娘(牧山の御祭神は当社御祭神の父にあたる豊玉彦命)、どちらにしろ深いつながりがあったのだろう。

明治になり、神仏分離後、当社は現社号で呼ばれるようになった。明治7年(1874年)、村社に列し、その後、神饌幣帛料供進社に指定された。

明治20年(1887年)には社殿を火災で失い、神饌幣帛料供進社に指定された際は仮宮だったという。現在の社殿はその後に建築されたもの。

【ご利益】
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零羊崎神社(石巻市真野) - 古くから蝦夷の豪族が住居した、白鳥宮と呼ばれる名神大社
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