応神朝創建の名神大社、近世には「奥州三観音」牧山観音とも
零羊崎神社(宮城県石巻市湊牧山7)
[住所]宮城県石巻市湊牧山7
[電話]0225-23-2815

零羊崎神社(ひつじさきじんじゃ)は、宮城県石巻市湊にある神社。北上川の左岸、標高約250メートルの牧山の頂上に鎮座している。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「零羊埼神社(陸奥国・牡鹿郡)」に比定される式内社(名神大社)の論社。近代社格では県社

一の鳥居は牧山南側の国道398号の大門崎歩道橋そばに所在する。そこから牧山山頂の当社へと参道が続く。

牧山神社、牧山のお宮、牧山零羊崎神社とも。御祭神は、豊玉彦命(大綿津見神)。海上守護の神として信仰される。例祭は5月8日で例大祭。

安永元年(1772年)の『封内風土記 巻之13』では、第15代応神天皇の勅によって西国から湊邑竜巻島(現 牧山)に鎮座したという。

由緒書によれば、応神天皇2年に、神功皇后の勅願により「涸満瓊別神(ひみつにさけのかみ)」という神名を賜り、東奥鎮護の神として奉斎されたという。

社名の「零羊崎(ひつじさき)」は涸満瓊別神にちなむもので、龍巻山は龍の字が取り除かれて「牧山」と呼ばれるようになった。

式内社「零羊崎神社」は『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日の条に「京畿七道諸神進階及新叙。惣二百六十七社。」の一つとして神階が従四位下に昇叙されている。

『延喜式神名帳』以降、社名は見えなくなり、江戸時代になって比定論争が起こる。現在も決着はついていない。論社は他に、同市真野に同名神社がある。真野の御祭神は当社御祭神の娘(豊玉姫命)にあたる。

当社は藤原清衡(1056年-1128年)より神宝黄金の竜、葛西清重(1161年-1238年)より銀竜や神剣など、葛西清経と葛西清宗からは太刀を寄進されている。

さらに江戸時代になって寛文元年(1661年)、伊達家の黒印状により社領5貫文の寄進を受けている。近世には牧山観音と称された。

牧山観音は、箟岳の箟峯寺、松島の富山観音とともに「奥州三観音」の一つとされた。

明治に入ると、神仏分離により牧山観音は明治3年(1870年)に住職が復職し現社号で呼ばれるようになった。

本堂は拝殿兼本殿とされ、安置されていた本尊は、当社別当だった長禅寺の支院梅渓寺に移されたが、後の火災で焼失している。

明治7年(1874年)、郷社に列し、その後、神饌幣帛料供進社に指定された。

昭和3年(1928年)に現在の本殿を新築し、それまで兼用としてきた旧本堂を拝殿に充てた。昭和17年(1942年)に県社に昇格、昭和27年(1952年)に石造明神鳥居を造営した。

平成23年(2011年)3月の東日本大震災では当社が鎮座する牧山の麓まで津波が押し寄せたことから、付近住民の一部が高台の当社へと避難した。

神仏分離前にこの地にあった長禅寺の石塔である相輪橖は、文化7年(1814年)の造営。拝殿内部には「白馬の図」「黒馬の図」の二つの絵馬が奉納されている。いずれも、市指定文化財。

境内社には栄存神社があり、片桐栄存(栄存法印)を祀る。長禅寺の別当で、石巻の発展・振興に尽力したため名声が非常に高い人物だった。

当社社殿西側から栄存神社へ向かう未舗装の参道沿いに三吉神社・道祖神社・古婦木稲荷神社が鎮座する。三吉神社は太平山三吉神社を勧請したもの。

道祖神社は猿田彦神を祀り、木製の男根型御神体や男根が彫刻された石祠が多く奉納されている。他の境内社として、白山薬師神社がある。

【ご利益】
水難除け、海上・交通安全、大漁満足・商売繁盛
零羊崎神社(石巻市湊) - 応神朝創建の名神大社、近世には「奥州三観音」牧山観音とも
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零羊崎神社(石巻市湊)の御朱印