役小角が紀州本宮を勧請した「日本第一」、室町期の本殿が現存
[住所]岡山県倉敷市林684
[電話]086-485-0105
熊野神社(くまのじんじゃ)は、岡山県倉敷市にある神社。近代社格では郷社。新熊野山として、県の記念物(史跡)に指定されている。参拝すれば、御朱印を頂ける。
「日本第一熊野十二社権現宮」「日本第一熊野神社」と称する。御祭神は伊邪那美神・伊邪奈岐神・家都御子神・速玉之男神。
天照大神・忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鵜草葺不合尊・軻遇突智尊・波邇夜須毘賣神・罔象女尊・稚産霊尊・八百萬神も祀る。
『続日本紀』によれば、修験道の祖と言われる役小角は文武天皇3年(699年)、朝廷より訴追を受け、熊野本宮に隠れていたが、伊豆大島に配流された。
当社伝によれば、この際、義学・義玄・義真・寿玄・芳玄ら5人の弟子たちを中心に熊野本宮大社の御神体を捧持したとされる。
彼らは3年にわたり各地を放浪し、役小角が赦免となった大宝元年(701年)3月、神託を得て現在地に紀州熊野本宮を遷座したという。
天平12年(740年)、聖武天皇が児島一円を熊野神社の社領として寄進した。
天平宝字5年(761年)には紀州熊野と同様の社殿、十二社権現宮を整え、付近の木見に新宮を、山村に那智宮(現 由加神社本宮、蓮台寺)を建て新熊野三山とした。
熊野神社と修験道の寺院が一体となった神仏習合の形態を取る宗教施設として栄えたが、平安時代中期以降は衰微した。
承久3年(1221年)、承久の乱が勃発し、敗れて隠岐に遠島となった後鳥羽上皇に連座して、上皇の第4皇子頼仁親王が児島に配流となった。
頼仁親王は衰退していた当社と寺院を再興し、以後、南北朝の頃まで繁栄した。
室町時代になり応仁の乱が勃発すると、この地も戦乱に巻き込まれ、応仁3年(1469年)には細川勝元方に加担した覚王院円海を中心とした兵により新熊野は焼き討ちに遭い、ほぼ全焼した。
明応元年(1492年)より焼き払われた建造物の再建が開始。現在、国の重要文化財に指定されている第二殿はこの時造営されたもの。
現在見られる第二殿を除く社殿は正保4年(1647年)に池田光政によって造営された。県の重要文化財に指定されている。
明治時代になると神仏分離令により、十二社権現は現社号に改められ、その他の寺院(五流尊瀧院)は天台宗寺院となった。五流尊瀧院は現在も三重塔が当社に隣接して現存する。
平成15年(2003年)9月、明和5年(1768年)建造の拝殿(修験道では「長床」と呼ぶ)を失火により全焼。平成19年(2007年)10月に再建した。
10月中旬に秋季大祭がある。前夜の宵祭りでは、神事の後、備州岡山城鉄砲隊による演武や児島瑜伽太鼓の演奏、夜店などで賑わう。
翌日の本祭では、白装束の氏子らが神輿を引いて、氏子地域内への行幸、御旅所や元宮への渡御が行われる。
社殿左奥に八尾羅宮がある。これは、寛文7年5月に池田光政が命じ勧請建立したもの。正徳2年に統合されたが、明治になって現在地に遷座した。
狐などによる農作物の被害が相次いだために、当社の神が託宣して祀らせたものだという。金運増大、資格・入学合格成就、また限界打破、八方破り、いじめ除けの神として信仰されている。
【ご利益】
身体壮健、交通安全、家内安全、厄災除け、病気平癒など(公式HP)

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熊野神社(くまのじんじゃ)は、岡山県倉敷市にある神社。近代社格では郷社。新熊野山として、県の記念物(史跡)に指定されている。参拝すれば、御朱印を頂ける。
「日本第一熊野十二社権現宮」「日本第一熊野神社」と称する。御祭神は伊邪那美神・伊邪奈岐神・家都御子神・速玉之男神。
天照大神・忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鵜草葺不合尊・軻遇突智尊・波邇夜須毘賣神・罔象女尊・稚産霊尊・八百萬神も祀る。
『続日本紀』によれば、修験道の祖と言われる役小角は文武天皇3年(699年)、朝廷より訴追を受け、熊野本宮に隠れていたが、伊豆大島に配流された。
当社伝によれば、この際、義学・義玄・義真・寿玄・芳玄ら5人の弟子たちを中心に熊野本宮大社の御神体を捧持したとされる。
彼らは3年にわたり各地を放浪し、役小角が赦免となった大宝元年(701年)3月、神託を得て現在地に紀州熊野本宮を遷座したという。
天平12年(740年)、聖武天皇が児島一円を熊野神社の社領として寄進した。
天平宝字5年(761年)には紀州熊野と同様の社殿、十二社権現宮を整え、付近の木見に新宮を、山村に那智宮(現 由加神社本宮、蓮台寺)を建て新熊野三山とした。
熊野神社と修験道の寺院が一体となった神仏習合の形態を取る宗教施設として栄えたが、平安時代中期以降は衰微した。
承久3年(1221年)、承久の乱が勃発し、敗れて隠岐に遠島となった後鳥羽上皇に連座して、上皇の第4皇子頼仁親王が児島に配流となった。
頼仁親王は衰退していた当社と寺院を再興し、以後、南北朝の頃まで繁栄した。
室町時代になり応仁の乱が勃発すると、この地も戦乱に巻き込まれ、応仁3年(1469年)には細川勝元方に加担した覚王院円海を中心とした兵により新熊野は焼き討ちに遭い、ほぼ全焼した。
明応元年(1492年)より焼き払われた建造物の再建が開始。現在、国の重要文化財に指定されている第二殿はこの時造営されたもの。
現在見られる第二殿を除く社殿は正保4年(1647年)に池田光政によって造営された。県の重要文化財に指定されている。
明治時代になると神仏分離令により、十二社権現は現社号に改められ、その他の寺院(五流尊瀧院)は天台宗寺院となった。五流尊瀧院は現在も三重塔が当社に隣接して現存する。
平成15年(2003年)9月、明和5年(1768年)建造の拝殿(修験道では「長床」と呼ぶ)を失火により全焼。平成19年(2007年)10月に再建した。
10月中旬に秋季大祭がある。前夜の宵祭りでは、神事の後、備州岡山城鉄砲隊による演武や児島瑜伽太鼓の演奏、夜店などで賑わう。
翌日の本祭では、白装束の氏子らが神輿を引いて、氏子地域内への行幸、御旅所や元宮への渡御が行われる。
社殿左奥に八尾羅宮がある。これは、寛文7年5月に池田光政が命じ勧請建立したもの。正徳2年に統合されたが、明治になって現在地に遷座した。
狐などによる農作物の被害が相次いだために、当社の神が託宣して祀らせたものだという。金運増大、資格・入学合格成就、また限界打破、八方破り、いじめ除けの神として信仰されている。
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身体壮健、交通安全、家内安全、厄災除け、病気平癒など(公式HP)

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