志々伎山と沖の沖ノ島に、西国警護に留まった日本武尊の子を奉斎した式内社
[住所]長崎県平戸市野子町251
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志々伎神社(しじきじんじゃ)は、長崎県平戸市野子町にある神社。志自伎神社とも。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 肥前国 松浦郡「志志伎神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社

神域は平戸島の南端近くにある、標高347.2メートルの志々伎山を中心に、古くは山の頂上に上宮、中腹に中宮、麓にある漁村の宮の浦に地の宮(下宮、邊都宮)、そして宮の浦沖の沖ノ島に沖の宮が置かれた。

創建年代は不詳。『肥前風土記』に記載があり、第12代景行天皇の頃の創祀とも。中世以降、別当寺として円満寺が設けられていた。

御祭神は『日本書紀』に伊予別君の祖とある十城別王(十城別命)。

『古事記』には見られないが、日本武尊の子で、母は大吉備建比売、同母兄に建貝兒王がおり、第14代仲哀天皇の異母弟にあたる。

神功皇后の三韓征伐に従い、その後当地に留まり西国警護を命ぜられたと伝えられる。

小値賀神島神社(鴨一隼)や平戸七郎神社(七朗神社、七郎氏広)など、各武将の分掌した下松浦一円の警備統轄の中心本署とされる。

王の没後、当地で奉斎された。地の宮は設けた武器庫を転用したもので、相殿には王が親から祀った天軍社 (天忍穂耳尊)を合祀している。

沖の宮は王の墓所であるという。島全体が墳墓とも。嵯峨天皇の弘仁2年(811)10月朔日、朝廷より木像の御神体が安鎮された。陽成天皇の元慶元年(877年)9月25日、勅使参向の儀式があった。

壱岐・対馬地域を除く長崎県内では唯一の式内社であり、最も古くから知られた神社である。松浦党諸家や周辺地域漁民の崇敬を広く集めた。

また、鴨一隼、七郎氏広も祀る。七郎神社(現 亀岡神社)と同じ形態となる。明治7年(1874年)には郷社に列し、明治14年(1881年)に県社に昇格した。

現在の祭祀の中心は中宮。当初は志々伎山山頂下の祠にあったが、永禄2年(1559年)に中腹に、さらに昭和36年(1961年)、明治初年に神仏分離令により廃された円満寺の跡地である現在地に移った。

旧社殿地は「旧式内社志々伎神社跡」として県の史跡に指定されている。

また、当社の神田領民が豊年祈願の踊りとして神社仏閣に奉納したのが始まりと伝えられる重要無形民俗文化財「平戸のジャンガラ」がある。

【ご利益】
武運長久、水難除け、海上・交通安全
志々伎神社 - 志々伎山と沖の沖ノ島に、西国警護に留まった日本武尊の子を奉斎した式内社
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