島原の乱とキリシタン改宗、被爆建造物「一本柱鳥居」と被爆楠
[住所]長崎県長崎市坂本2-6-56
[電話]095-844-1415

山王神社(さんのうじんじゃ)は、長崎県長崎市坂本にある神社。近代社格では県社。浦上皇大神宮とも、山王日吉神社とも呼ばれる。参拝すれば、御朱印を頂ける。

長崎市への原子爆弾投下において、鎮座地が爆心地から約800メートルの地点に位置したために被爆し、その跡を残す一本柱鳥居や、熱線により裸同然となりながらも豊かな緑を取り戻した楠で有名。

天照大御神豊受比売神大山咋神大物主神の4柱を中央に、左座に伊邪那岐神高皇産霊神天御中主神神皇産霊神大年神経津主神を、右座に健甕槌神、御代御代皇御孫神(歴代天皇)を祀る。

寛永15年(1638年)、島原の乱の鎮圧のため長崎に赴いた松平信綱が、当地に山王権現の勧請を思い立ち、長崎代官の末次平蔵と計って山王神社として創祀された。

当地の景色が近江の比叡山に似ており、地名も比叡山の鎮守である山王権現(現 日吉大社)の鎮座地坂本と共通すしたためと言われる。

当初の鎮座地は現社地の近くであったと思われるが不明で、一説に北北西に1キロ程隔たった岡町付近であったともいう。

慶安元年(1648年)、長崎寺町の延命寺の開基である龍宣により、山王権現を本尊とする白巌山観音院円福寺(えんぷくじ)と号する新義真言宗の寺院となった。

同時に京都仁和寺を本寺とする延命寺の末寺とされ、承応元年(1652年)に鎮座地が墳墓に近いという理由で延命寺2代目住職の卒覚が現社地に遷座した。

明治元年(1868年)、神仏の判然令を受け、円福寺を廃して日吉神社に改称、その後村社に列した。

また、浦上村のキリシタンに改宗を促す宗教対策の一環として、明治元年に長崎裁判所総督の澤宣嘉の建議により、翌明治2年(1869年)3月に現山里小学校の地に伊勢の神宮(伊勢神宮)を勧請して「皇大神宮」が創建され、同年7月に県社に列した。

当初春秋の祭礼や修築などは官費で行われることとされていたが、明治5年(1872年)に官費の支弁が停止され、氏子とされたキリシタン達も棄教や改宗を拒否したため、神社としての維持が難しくなった。

台風の被害なども重なり、村社日吉神社の氏子と協議の末、明治14年(1881年)1月8日、皇大神宮は日吉神社の地に遷座して日吉神社を合祀、県社皇大神宮として再出発した。

昭和20年(1945年)8月9日に米軍の原爆投下により、社殿はもとより由来書や宝物なども焼失。原爆の爆風により片方の柱が吹き飛んだ二の鳥居が現存し、一本柱鳥居あるいは片足鳥居と呼ばれ、現存する被爆建造物となっている。

境内入口に南北に向かい合って立つ2本の楠が被爆楠。南側は胸高幹周8メートル、北側は同6メートル程で樹高はともに20メートル前後、樹齢はそれぞれ400年から500年。

両木とも原爆の爆風により上部が欠損したため、幹周に比べると樹高が低い。熱線により幹肌を焼かれ跡も確認できる。「山王神社の大クス」として市の天然記念物。

例祭は10月17日で、浦上くんちが奉納される。浦上くんちは「浦上九日」とも書き、元来は9月18日に行われていた。また山王神社では古くは3月18日に山王祭を行っていた。

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山王神社(長崎市) - 島原の乱とキリシタン改宗、被爆建造物「一本柱鳥居」と被爆楠
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山王神社(長崎市)の御朱印