長宗我部元親が戦勝祈願、4月「どろんこ祭り」、11月「おなばれ」
[住所]高知県高知市長浜6600
[電話]088-841-2464

若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)は、高知県高知市長浜にある神社。近代社格では県社。社紋はまり巴。参拝すれば、御朱印を頂ける。

鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によれば、源頼朝は平氏を討ち果たした文治元年(1185年)、京都六条にあった祖父源為義邸跡に石清水八幡宮を勧請して六條若宮八幡宮を創建した。

この時、土佐国吾川郡一円を六條若宮八幡宮の神領とし、その鎮護のために同年12月30日、当地にも若宮を分祀した。これが当社の起源となる。

御祭神は、誉田別命(応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)・宗像三女神市杵島姫命湍津姫命田心姫命)。相殿に高靇神を祀る。後述のように、源義朝の五男で、頼朝の弟である源希義の伝承がある。

戦国時代の永禄3年(1560年)、長宗我部元親は初陣に臨み、当宮馬場先に陣を構えた。この時に初陣を勝利で飾った。以来、元親は合戦のたびに当社で戦勝祈願を行うようになった。

そのため、拝殿は元親により出蜻蛉式に立て直された。凱旋報告を行う土佐神社の拝殿も入蜻蛉式に改められた。日本では蜻蛉は勝ち虫とも言われ、古来より縁起物とされてきたことによる。

他に元親の崇敬社としては、南国市の岡豊別宮八幡宮が知られている。

天正14年(1586年)、豊臣秀吉に従軍し島津討伐に向かう際、元親は戦勝祈願を行った。この時、軍旗が鳥居の笠木に引っかかって落ちた。衆人はこれを不吉としたが、元親は「敵を笠にかけて討伐する吉兆である」と出陣。

しかし、戸次川の戦いで嫡子信親を失うなど惨敗。憤慨した元親は帰国後、当社の鳥居を不祥のものとして解体し海に流したという。

江戸時代に入り山内氏が土佐藩主となって以後も崇敬され、藩主祈願八社の一つとされた。

幕末の慶応元年(1865年)に地震があった際、元親が破壊した鳥居の基礎が浮き出てきた。これは神意であると明治3年(1870年)、木製で鳥居を再建した。

明治時代になり、明治6年(1873年)に郷社に列した。昭和5年(1930年)には県社に昇格した。昭和11年(1936年)、老朽化した鳥居を再建した。

昭和55年(1980年)、木製鳥居に替わり、鉄筋コンクリート製の鳥居が建立された。現在は長浜・御畳瀬・浦戸・横浜という高知市南部の総鎮守となっている。

外苑には長宗我部元親初陣像が建つ。平成11年(1999年)、元親没後400年を期して造られた。槍を持ち像の前にある四国地図を掴もうとする姿になっている。後年の四国の覇者らしい風貌。

当宮はそもそも元親とゆかりが深いが、現在は元親を祀る秦神社も兼務している。

例祭は11月6日で、秋季例祭。御神幸祭であり、別名「おなばれ」。神輿とその前後に続く祭列が練り歩く。

行列は、お供衆、先祓い、神輿の順に進む。お供衆は、先頭を天狗面を被った猿田彦が進む。次に革籠が続く。革籠の中身は誰も確認したことがないが、源希義の遺品が入っているとも。

その後を土佐藩時代の風俗をした「お鉄砲組」が進む。先祓いとして、神輿の前を氏子から選ばれた10名の「練り子」と呼ばれる少年が白粉を塗り女装して木製の薙刀を持って舞いながら進む。

神田祭が4月第1土曜日より3日間行われる。別名「どろんこ祭り」で、早乙女が男性に泥を塗る祭。

氏子を中心に約300名の男女が浴衣姿で集まり、「かこ」と呼ばれる神饌を供えて豊作を祈願する。

その後、氏子から選ばれた12名の早乙女により外苑の御神田で田植えが行われ、田植えの後、早乙女が周囲にいる男性の顔や手足に泥を塗る。

起源は長宗我部氏の時代に疫病が流行ったため、当宮に神田を奉納し疫病退散を祈願すると静まったことによるという。

境内には、天神宮(天水分大神。あるいは菅原道真公)、荒神宮(大荒神。大年御祖神大土御祖神)、三座神社(山祇大神・宇迦之御魂神大国主神)、三社神社(椿社・薬神社。大山祇命水波能売神少彦名神)、隼人社(福留隼人正)がある。

【ご利益】
武運長久、立身出世、厄災除け、安産(公式HP
若宮八幡宮(高知市) - 長宗我部元親が戦勝祈願、4月「どろんこ祭り」、11月「おなばれ」
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若宮八幡宮(高知市)の御朱印