南北朝期に大和国手向山八幡宮の御神体が顕現した、5月の大垣祭が有名
[住所]岐阜県大垣市西外側町1-1
[電話]0584-78-4977

大垣八幡神社(おおがきはちまんじんじゃ)は、岐阜県大垣市にある神社。近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

正式名称は八幡神社である。大垣市の総鎮守で、例年5月15日の前の土・日曜日に行なわれる大垣祭でも知られる。

御祭神は、応神天皇神功皇后・比咩大神。奈良時代の天平勝宝元年(749年)から、現在の大垣市に相当する大井荘は東大寺の荘園だった。

この縁により、南北朝時代の建武元年(1334年)、東大寺鎮守の八幡宮である南都梨原宮を手向山八幡宮より当国安八郡大井荘藤江村に勧請したのが当社の始まり。

当時大地震があり、手向山八幡宮の御神体が消失した。慌てた僧侶や神官は全国各地を探し回った所、当地付近で御神体を発見。

御神体を大和国に持ち帰ろうとしたが、御神体は全く動かず、当地の僧侶に相談したところ、「八幡様の御意志ですので、当地で奉斎するように」となった、と伝わる。

その後、室町時代の宝徳3年6月(1451年)、遮那院条済が現在の大垣市外側町の地に遷座し、遮那院が代々別当職となり、大垣町及び近傍十八郷(大井荘十八郷)の総社と称した。

戦国時代となり、天文15年(1546年)には斉藤道三の兵火により全焼、慶長5年(1600年)に関が原の戦いを経て、ほどなく再建されたと考えられている。

江戸時代に入り、慶長11年(1606年)、大垣城主石川康道が政俊の刀を奉納、慶長13年(1608年)には幣殿・拝殿・舞殿が建立される。

慶安元年(1648年)、大垣藩初代藩主戸田氏鉄により再建整備が行われるなど、江戸期を通じて、大垣城主の代々の崇敬、幕府の朱印による社領安堵などがあった。

戸田氏鉄による再建を祝したものが、現在の大垣祭の起源だと言う。この時期の各界の崇敬の証として、下記の他、古文書及び刀剣数口の神宝などがあった。

・後陽成天皇の神号軸
・藤原行成の筆となる神号額
・大垣城主奉納の神鏡
・梶川英盛が寛文年間(1661年-1673年)に記した縁起

明治に入ると、明治新政府より神仏分離令が出され、当社も遮那院を分離。明治6年(1873年)1月には郷社に列し、明治13年(1880年)5月23日には県社に昇格した。

その間、常葉大神が明治6年(1873年)に当社境内に移転し、明治35年(1902年)に大垣市郭町に遷座した。現在の常葉神社である。

昭和20年(1945年)7月の大東亜戦争(太平洋戦争)による空襲で社殿や上記の社宝は焼失した。

戦後、昭和26年(1951年)には本殿が、昭和29年(1954年)には拝殿が、昭和30年(1955年)には社務所が復興し、現在に至る。

大垣祭は、一般には大垣まつりとも表記され、軕(やま)が巡行する壮大な祭典である。「大垣祭の軕行事」として、国の重要無形民俗文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録される予定。

境内には、平成16年(2004年)に整備された新しい自噴水があり、大垣駅からも近く市民の憩いの場となっている。市景観遺産。

境内社として、八幡神勧請以前からの地主神である大福稲荷神社(宇迦之御魂神)、遷座時以来の大垣天満宮(菅原道真)、江戸期創建の大垣竜神社や広瀬神社・龍田神社、昭和期に出雲大社美保神社を勧請した出雲神社がある。

【ご利益】
安産・交通安全・家内安全・厄災除け・病気平癒・健康長寿など(公式HP
大垣八幡神社 - 南北朝期に大和国手向山八幡宮の御神体が顕現した、5月の大垣祭が有名
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大垣八幡神社の御朱印