「木幡の幡祭り」で知られる弁財天の式内社、三重塔や大スギ
[住所]福島県二本松市木幡治家49
[電話]0243-46-2869

隠津島神社(おきつしまじんじゃ)は、福島県二本松市木幡にある神社。『延喜式神名帳』にある「隠津島神社(陸奥国・安積郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

御祭神は、隠津島姫命、またの名を市杵島姫命と、田心姫命湍津島姫宗像三女神

県の名勝及び天然記念物に指定される木幡山全域を境内地とし、山中に県指定史跡の経塚群を始めとする文化財や史跡を有する。

社伝によれば、奈良時代の神護景雲3年(769年)に安積(阿尺)国造の丈部継足が、3男である継宣を社司(祭祀者)に定めて山中に勧請したのが創祀。

平安時代の大同年間(806年-810年)に平城天皇の勅願により神仏が習合した両部神道に基づき、隠津嶋神社弁財天と称するようになった。別当は天台宗治陸寺。

平安時代後期、前九年の役において安倍氏征討のために朝廷から派遣された源頼義、義家父子が当社に祈願したと伝わる。

天正13年(1585年)の伊達政宗の仙道侵攻の際に兵火で社殿が焼失したが、その前後においては、時の領主の社殿造営が相次いでいる。

江戸時代になり、会津藩に封された蒲生秀行は杉数千本を献植し、二本松藩藩主加藤明利は寛永14年(1637年)に木幡山の山林を保護する禁制を発した。

加藤氏の後に入封した丹羽家によって祈願所と定められ、安達郡東部一帯の総鎮守とされ、明暦元年(1655年)に藩主が社殿の修復と社領50石を寄進している。

また、貞享3年(1686年)に社殿が再建され、寛政年間(1789年-1801年)にも社殿の造営が行われ、これが現社殿となる。江戸時代を通じて丹羽家により崇敬された。

明治2年(1869年)に神仏判然令を受けて治陸寺との関係を断ち、弁天宮は厳島神社と改称。明治9年(1876年)11月に郷社に列した。

明治35年(1902年)に現社号に改称し、明治40年(1907年)には県社に昇格した。なお、昭和15年(1940年)に神主阿部家の居宅及び倉庫が焼失し、その際に古文書や記録が焼失した。

木幡の幡祭り」が有名。境外末社羽山神社の祭りで、日本三大旗祭りの一つ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。もとは旧暦11月18日だったが、現在は12月第1日曜日に斎行される。

前九年の役において安倍氏に逐われた源頼義、義家父子が木幡山に立て籠もった際の故事にちなむものとされ、参籠後の幡(絹製)の奉納と、15歳を迎えた後に初めて神事に参加する男子の成人儀礼の要素がある。

国の天然記念物である「木幡の大スギ」や蒲生秀行が植栽したという目通周囲7メートル以上の杉や檜をはじめとする目通幹周4メートル以上の巨木がそびえ、県の保健保安林にも認定されている。

本殿両脇の養蚕神社と松尾神社、本殿北側の足尾神社、白山神社、疱瘡神社、八坂神社、熊野神社、養蚕神社、山中の医薬神社、門神社、山口神社、天満神社の計12社の境内社がある。

拝殿より一段下の三重塔は、天満神社として菅原道真公を学業の神として祀っている。文明4年(1472年)の建立だが、その後数度にわたって改修されている。県の重要文化財。

本殿に至る参道沿いを始めとする山内各所に治陸寺時代の神仏習合の形跡を窺わせる自然石の平面上に彫られた観音菩薩の像が「三十三観音」と称され、遊歩道も整備された。

なお、式内社「隠津島神社」の論社は他に、郡山市喜久田町郡山市湖南町にそれぞれ同名神社がある。

【ご利益】
無病息災、厄災除け、交通安全、縁結び(公式HP
隠津島神社(二本松市) - 「木幡の幡祭り」で知られる弁財天の式内社、三重塔や大スギ
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隠津島神社(二本松市)の御朱印