石城国の国魂を奉斎、坂上田村麻呂の再興、大和舞と豊間千道祭
[住所]福島県いわき市平菅波宮前26
[電話]0246-34-0092
大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は、福島県いわき市平菅波宮前にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「大国魂神社(陸奥国・磐城郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
御祭神は、大己貴命・事代主命・少彦名命で、大國魂大神と総称する。大國主命の嫡后で、須佐之男命の娘である須勢理姫命も祀るという。
奈良時代の養老2年(718年)、石城国が設置された。石城国府は当社東南方2キロにある根岸遺跡に置かれたと考えられている。
石城国のまほろば(聖なる地、真秀羅場、枢要なる霊地)の森に大國魂神、石城国の国魂を奉斎したのが、当社の創祀。
当社周囲には、根岸遺跡の他、中田横穴古墳(沼ノ内・国史跡)、八幡横穴(平高久・市史跡)、天冠男子像埴輪(平下高久出土・国重文)、夏井廃寺跡(平下大越・県史跡)などがある。
また当社飛地境内の甲塚古墳(平荒田目・国史跡)は、石城国造の建許呂命の墳丘であると伝わる。古代の文明が花開いた地だったことは間違いない。
石城国はまもなく陸奥国に編入され、この地域は磐城郡に属するが、当社は後に衰微したようで、再興は桓武天皇の延暦年間(782年-806年)、征夷大将軍坂上田村麻呂によるという。
坂上田村麻呂が勅を奉じて東夷を征伐した際、当地を通過し、ある古祠が甚だしく荒廃しているのを見て、土地の人に問うたという。
國魂社と知った田村麻呂は、戦勝を祈り、成就後に神恩感謝として当社を再興したという。それから100年後ほどの『延喜式神名帳』では、磐城郡七座の首座となった。
鎌倉時代になると、地頭・岩城氏の一族、國魂村地頭の國魂氏が祭祀権を掌握し、さらに南北朝時代には、神主・山名氏が、平窪・矢野目・國魂三村を領有し、「大國魂大明神祭礼以下神役勤仕」した。
この頃の記録である国魂文書は県指定重要文化財。中世の重要史料で、中でも、北畠顕家、足利尊氏の袖判のある文書や岩城氏の始祖を知る「古系図」は極めて重要とされる。
室町時代には、領主・岩城氏によって社殿の大造営が行われ、江戸時代には磐城平藩主による修復が重ねられた。当時、神主・下社家・巫女あわせて二十数人が奉仕していたという。
幕末の元治2年(1865年)には、朝廷より「勅宣正一位」の神階を授かり、明治12年(1879年)、郷社に列し、大正12年(1923年)には県社に昇格した。
例祭は5月3日。楽殿において大和舞と稚児舞が奉納される。大和舞は内藤露沾公の献詠に「引幕や天の岩戸の桂花」の一句があり、すでに1730年代以前には行われていたという。
1月28日に豊間千道祭がある。天明5年(1785年)、豊間村に流行病があり、神輿渡御の上、鎮疫祭が行われ、その結果、病魔が退散したため、翌年正月より始ったもの。
豊間浜にそそぐ霊通川口に、昔、大黒様の御姿石が出現し、当社に奉献された故事もあり、当社東南方10キロの塩屋崎灯台のふもとの浜への神輿渡御が行われる。
境内には、御神木の大杉があり、「厄除け杉」といわれ、信仰を集める。落雷の被害を受けたが、若枝も伸び樹勢は良好。樹高19メートル、胸高幹周り7.28メートルの巨木。
なお、市内には当社とよく似た國魂神社という神社があるが、当社とは別の神社である。
【ご利益】
厄災除け、地域・家内安全、病気平癒、身体壮健(公式HP)

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大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は、福島県いわき市平菅波宮前にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「大国魂神社(陸奥国・磐城郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
御祭神は、大己貴命・事代主命・少彦名命で、大國魂大神と総称する。大國主命の嫡后で、須佐之男命の娘である須勢理姫命も祀るという。
奈良時代の養老2年(718年)、石城国が設置された。石城国府は当社東南方2キロにある根岸遺跡に置かれたと考えられている。
石城国のまほろば(聖なる地、真秀羅場、枢要なる霊地)の森に大國魂神、石城国の国魂を奉斎したのが、当社の創祀。
当社周囲には、根岸遺跡の他、中田横穴古墳(沼ノ内・国史跡)、八幡横穴(平高久・市史跡)、天冠男子像埴輪(平下高久出土・国重文)、夏井廃寺跡(平下大越・県史跡)などがある。
また当社飛地境内の甲塚古墳(平荒田目・国史跡)は、石城国造の建許呂命の墳丘であると伝わる。古代の文明が花開いた地だったことは間違いない。
石城国はまもなく陸奥国に編入され、この地域は磐城郡に属するが、当社は後に衰微したようで、再興は桓武天皇の延暦年間(782年-806年)、征夷大将軍坂上田村麻呂によるという。
坂上田村麻呂が勅を奉じて東夷を征伐した際、当地を通過し、ある古祠が甚だしく荒廃しているのを見て、土地の人に問うたという。
國魂社と知った田村麻呂は、戦勝を祈り、成就後に神恩感謝として当社を再興したという。それから100年後ほどの『延喜式神名帳』では、磐城郡七座の首座となった。
鎌倉時代になると、地頭・岩城氏の一族、國魂村地頭の國魂氏が祭祀権を掌握し、さらに南北朝時代には、神主・山名氏が、平窪・矢野目・國魂三村を領有し、「大國魂大明神祭礼以下神役勤仕」した。
この頃の記録である国魂文書は県指定重要文化財。中世の重要史料で、中でも、北畠顕家、足利尊氏の袖判のある文書や岩城氏の始祖を知る「古系図」は極めて重要とされる。
室町時代には、領主・岩城氏によって社殿の大造営が行われ、江戸時代には磐城平藩主による修復が重ねられた。当時、神主・下社家・巫女あわせて二十数人が奉仕していたという。
幕末の元治2年(1865年)には、朝廷より「勅宣正一位」の神階を授かり、明治12年(1879年)、郷社に列し、大正12年(1923年)には県社に昇格した。
例祭は5月3日。楽殿において大和舞と稚児舞が奉納される。大和舞は内藤露沾公の献詠に「引幕や天の岩戸の桂花」の一句があり、すでに1730年代以前には行われていたという。
1月28日に豊間千道祭がある。天明5年(1785年)、豊間村に流行病があり、神輿渡御の上、鎮疫祭が行われ、その結果、病魔が退散したため、翌年正月より始ったもの。
豊間浜にそそぐ霊通川口に、昔、大黒様の御姿石が出現し、当社に奉献された故事もあり、当社東南方10キロの塩屋崎灯台のふもとの浜への神輿渡御が行われる。
境内には、御神木の大杉があり、「厄除け杉」といわれ、信仰を集める。落雷の被害を受けたが、若枝も伸び樹勢は良好。樹高19メートル、胸高幹周り7.28メートルの巨木。
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