枝ぶりに龍神、金運神社としても知られる義経ゆかりの古社、秋は「ほうらい祭」
[住所]石川県白山市鶴来日詰町巳118-5
[電話]076-272-0131

金剱宮(きんけんぐう)は、石川県白山市鶴来日詰町にある神社。白山七社の一つで、近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

御祭神は天津彦火瓊瓊杵尊大国主命(大国さん)、事代主神(えびすさん)、大山咋命(酒の神さま)、日本武尊猿田彦命菅原道真を奉安する。

社伝では、創建は第10代崇神天皇3年とされる。『神階記』によれば、平安時代の承平3年(933年)に正三位、永観元年(983年)に従二位、寛弘4年(1007年)に正一位に叙任される。

神仏習合時には、多くの伽藍を有していたと伝えられる。古来より、白山七社の一つ、特に白山比咩神社(白山本宮)・三宮・ 岩本宮とともに本宮四社と称された。

寿永2年(1183年)、木曾義仲(源義仲)が倶利伽羅峠の戦いで平家に勝利した際に神宝が現れ、義仲は鞍付きの馬20頭を寄進した。現在境内にある神馬の像はこの故事にちなむもの。

『義経記』によれば、文治2年(1186年)、奥州へ向かう源義経が、当宮に参拝し、 夜もすがら神楽を奉納、義経奉納の太刀一口があったとの口伝があるという。境内には義経腰掛石がある。

南北朝時代の建武3年(1336年)、北陸越前の金ヶ崎の戦いでは、後醍醐天皇側に味方して、足利尊氏方の軍と闘う氣比神宮に呼応、加賀国の剣は白山の衆徒とともに頼りにされたという。剣は当宮、白山は白山本宮。

明治5年(1872年)に金劔神社として郷社に列し、明治28年(1895年)には県社に昇格した。後に現社号に改称した。

明治39年(1906年)、境外末社の大國社・恵比須社・日吉社・ 大鳥社の4社を合併。明治41年(1908年)には境内末社の菅原社を、 大正3年(1914年)に村社の日吉神社を合祀した。

大正13年(1924年)に鎮座二千年祭、昭和37年(1962年)に二千五十年祭、平成7年(1995年)に二千八十年祭、平成17年(2005年)に二千百年祭が斎行された。

例祭は10月第1土・日曜日に秋の収穫を祝う「ほうらい祭」。その名物である「造り物」は、背丈が5メートルもある人形で、多くは武将をモチーフとしている。

収穫された五穀などをあしらって、その年の豊作に感謝し、来る年の無事を祈る。パーク獅子吼内にある「造り物の館」に展示されている。

天乃真名井(天の真名井)と呼ばれる境内に湧く泉がある。奈良時代の天平年間(729年-749年)から伝わる古池とされる。大干ばつの時も長雨の時も変わらぬ水量で知られる。

境内社に護国の英霊を祀る招魂社、主神の御子である彦火火出見命を祀る乙劔宮、大阪今宮戒社の御分霊を祀る恵比須社、崇神天皇を祀る金刀比羅社、丈六社、粟島社がある。

社殿後背には常緑広葉樹、県指定天然記念物の「金剱宮社叢ウラジロガシ林」が広がる。多くの樹木の中で、枝ぶりが「龍神様」の形に見えるものが出現し、近年話題となった。

幕末加賀藩勤王志士の首魁で、禁門の変(元治の変)に関与し、29歳で斬首された小川幸三の生家址の記念碑がある。

現在当社は別名「金運神社」と呼ばれ、パワースポットとして有名になっている。「イヤシロチ」の地域探訪に精力的な船井総研の船井幸雄が当社を推薦したのがきっかけ。

やはり同じく船井の推薦があった山梨県富士吉田市の新屋山神社とともに、創業者で、株式上場させた経営の神・船井の言だけに、その信奉者の参拝も多いという。

白山市の佐羅早松神社などを兼務している。

【ご利益】
金運、商売繁盛、夫婦和合(公式HP
金剱宮 - 枝ぶりに龍神、金運神社としても知られる義経ゆかりの古社、秋は「ほうらい祭」
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金剱宮の御朱印