義経の笛と弁慶の小刀が伝わる能登の日本海守護の神、寺家の日本一のキリコ
[住所]石川県珠洲市三崎町寺家4-2
[電話]0768-88-2772

須須神社(すずじんじゃ)は、石川県珠洲市三崎町にある神社。『延喜式神名帳』にある「湏湏神社(能登国・珠洲郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

当社は高座宮(たかくらぐう)・金分宮(きんぶんぐう)の両社に夫婦神を祀り、「三崎権現」「須須大明神」と尊崇され、日本海の守護神として信仰された。

御祭神は高座宮に天津日高彦穂瓊瓊杵尊・美穗須須美命、金分宮に木花咲耶姫命。美穗須須美命は『出雲風土記』に見える神で、大国主命の子である建御名方命に相応するとされる。現在は建御名方命・保食神武甕槌命も祀る。

第10代崇神天皇の御代、能登半島最東北端の山伏山(鈴ケ嶽)の頂上に創建され、社伝によれば、飛鳥時代から奈良時代にかけて、用明・元正両天皇より勅使の献幣があった。

天平勝宝年間(749年-757年)に現在地に遷座した。『日本三代実録』によると、平安時代の貞観15年(873年)8月4日、従五位上の神階を賜わった。

奥宮鎮座地の標高172メートルの山伏山は山容優美で知られ、海上からの景観は、鈴をさかさにしたような典型的な神奈備の霊山。

古代から北海航行の目標、漁だめの森、御神体山として崇拝され、平安時代中期には海上警戒の設備を置き、烽火が一度あがると、郡家で受継ぎ国府、そして京の都へ伝達されたという。

奥宮には、美穗須須見命の他、武甕槌命・經津主命天兒屋根命・姫大神の春日神が祀られている。

文治3年(1187年)、源義経が兄源頼朝に追われ奥州平泉へ下向した際、須須岬沖合で時化にあったが、無事難を逃れた。 その御礼として、平家の名宝とも伝えられる義経愛用の笛「蝉折の笛」と、弁慶が寄進した「左」銘入りの守刀「弁慶の守刀」が現存する。下記は義経・弁慶の献詠。
都より 波の夜昼 うかれきて 道遠くして 憂目みる哉(弁慶)

憂目をば 藻塩と共に かき流し 悦びとなる 鈴の御岬は(義経)
鎌倉時代の木造男神像5躯が現存し、現在は国の重要文化財に指定されている。素朴でいずれも表情を異にし、写実美をおびた衣冠束帯の座像。

室町時代になり、足利時代は大宮司猿女氏以下、社人・社僧が多く、別当寺に十二坊、社領3000石が献納された。猿女氏は『古事記』に明記される天宇受賣命の裔。

文明12年(1480年)、蓮如の奥方真如院(幼名蓮能)が16歳の時、父の七回忌を祈念し納経した法華経8巻も現存する。

安土桃山時代の天正12年(1584年)、前田利家が巡国の際、祈願所と定め、社領として神田5町歩(石高75石)を寄進し、武運長久を祈願したという。利家にも、蝉折の笛に関連する献詠がある。

元禄10年(1697年)、加賀藩へ出した大宮司書状によると、すでに奥宮の中腹に大燈明堂が設けられ、一夜に油1升、燈心布3尺を用い、夜ごと大神に献燈し、北海の暗夜を進む渡海船を守護した。この燈明堂が明治初年、現在の禄剛崎灯台に進展した。

珠洲一郡の総社として、祭礼は「お郡祭(こうりさい)」「御出御幸(おいでごこう)」と称し、郡内巡行の祭儀が半月がかりで近年まで斎行されていた。

例祭は9月第2土曜日で、寺家キリコ祭り。高さ日本一の約16メートル、総漆塗りで金箔と彫り物の装飾で飾られた豪華さと美しさで日本一のキリコと言われる。

夜通し行われたキリコ巡回の後は、境内で約100メートルの長さに敷かれた稲藁に火をつけて神輿が火の中を駆け抜ける火渡しや、キリコの乱舞などが行われる。

社叢は千古の昔から神域として保護され、スダジイをはじめ、タブノキ、ヤブニッケイ、ヤブツバキなど北部照葉樹林の鬱蒼たる原生林をなし、「須須神社社叢」として、国の特別史跡名勝、天然記念物に指定されている。

他に、翁面(古珠洲焼)、隠切支丹崇拝像、古文書70余通(県指定有形文化財)がある。

【ご利益】
水難除け、海上・交通安全、旅行安全、武運長久
須須神社 - 義経の笛と弁慶の小刀が伝わる能登の日本海守護の神、寺家の日本一のキリコ
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須須神社の御朱印