古墳時代の墳墓跡や近世城郭の石垣や堀の一部が残る、代官稲荷・権九郎稲荷
[住所]大分県日田市丸山2
[電話]-
月隈神社(つきくまじんじゃ)は、大分県日田市丸山にある神社。近代社格では村社。三隈三山(日田三丘)の一つで、月隈山と呼ばれる小高い丘に鎮座する。御朱印の有無は不明。
当社から見て南南西に日隈神社のある日隈山が、西南西に星隈神社がある星隈山があり、三隈三山を構成する。月隈山には、古墳時代の墳墓跡といわれる横穴群がある。
塩谷大四郎(1769年-1836年)が日田代官の頃、この横穴群から人骨が掘り出された。第二次大戦中には防空壕として拡張されたという。
慶長6年(1601年)に日田郡令小川光氏が月隈山に城を築いて丸山城と名づけ、石川主殿守総輔のとき永山城と名を改めた。
今は月隈公園となっていて、その城跡は石垣と堀の一部が残るだけではあるが、相当しっかりとした石垣が現存している。
当社の創建年代は不詳だが、元和2年(1616年)、石川主殿守総輔が領主として居城した時に、領民の繁栄と豊穣のため、社殿を造営して奉斎したという。
貞享3年(1686年)からは、日田郡代が山麓の南側に永山布政所を置き、九州各地にある幕領や九州各藩の目付としてその威勢を天下に示したという。
寛政5年(1793年)、西国郡代の羽倉権九郎が伏見稲荷大社の御分霊を勧請し合祀。
塩谷大四郎正義が横穴群から人骨を掘りだしたのは金比羅社の造立のためだという。それら人骨はまとめて埋葬され、現在は広瀬淡窓が撰した文化15年(1818年)の帰安碑がある。
大正年間(1912年-1926年)には、延享2年(1747年)に代官である岡田庄太夫が御陣屋御門前に勧請した天満宮を合祀している。
以上を経て、御祭神は、大宮賣神、猿田彦神、武甕土神、経津主神、天児屋根命、比賣神、崇徳天皇、天照大神、大物主命、菅原道真命、宇迦之御魂神。
稲荷、天満宮、金比羅社の他、春日社などもあったようであり、あるいは、もともとは春日社か、あるいはその他の社の上に、江戸後期の合祀となったのかもしれない。
ただし、現在に至るまで稲荷色が強く、勧請者にちなんで、代官稲荷・権九郎稲荷などとも称され、往時は初午の祭祀には近郷よりの参拝者が多かったという。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、学業・受験合格、交通安全
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月隈神社(つきくまじんじゃ)は、大分県日田市丸山にある神社。近代社格では村社。三隈三山(日田三丘)の一つで、月隈山と呼ばれる小高い丘に鎮座する。御朱印の有無は不明。
当社から見て南南西に日隈神社のある日隈山が、西南西に星隈神社がある星隈山があり、三隈三山を構成する。月隈山には、古墳時代の墳墓跡といわれる横穴群がある。
塩谷大四郎(1769年-1836年)が日田代官の頃、この横穴群から人骨が掘り出された。第二次大戦中には防空壕として拡張されたという。
慶長6年(1601年)に日田郡令小川光氏が月隈山に城を築いて丸山城と名づけ、石川主殿守総輔のとき永山城と名を改めた。
今は月隈公園となっていて、その城跡は石垣と堀の一部が残るだけではあるが、相当しっかりとした石垣が現存している。
当社の創建年代は不詳だが、元和2年(1616年)、石川主殿守総輔が領主として居城した時に、領民の繁栄と豊穣のため、社殿を造営して奉斎したという。
貞享3年(1686年)からは、日田郡代が山麓の南側に永山布政所を置き、九州各地にある幕領や九州各藩の目付としてその威勢を天下に示したという。
寛政5年(1793年)、西国郡代の羽倉権九郎が伏見稲荷大社の御分霊を勧請し合祀。
塩谷大四郎正義が横穴群から人骨を掘りだしたのは金比羅社の造立のためだという。それら人骨はまとめて埋葬され、現在は広瀬淡窓が撰した文化15年(1818年)の帰安碑がある。
大正年間(1912年-1926年)には、延享2年(1747年)に代官である岡田庄太夫が御陣屋御門前に勧請した天満宮を合祀している。
以上を経て、御祭神は、大宮賣神、猿田彦神、武甕土神、経津主神、天児屋根命、比賣神、崇徳天皇、天照大神、大物主命、菅原道真命、宇迦之御魂神。
稲荷、天満宮、金比羅社の他、春日社などもあったようであり、あるいは、もともとは春日社か、あるいはその他の社の上に、江戸後期の合祀となったのかもしれない。
ただし、現在に至るまで稲荷色が強く、勧請者にちなんで、代官稲荷・権九郎稲荷などとも称され、往時は初午の祭祀には近郷よりの参拝者が多かったという。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、学業・受験合格、交通安全
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