城井鎮房を祀る白井神社の境内末社、鎮房の謀殺で決起した従臣45柱を祀る
[住所]大分県中津市二ノ丁
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扇城神社(せんじょうじんじゃ)は、大分県中津市の中津城址内にある城井神社境内末社にあたる神社。御祭神は宇都宮鎮房公従臣四十五柱。御朱印の有無は不明。
天正15年(1587年)5月、豊臣秀吉が九州平定にあたり、豊前六郡を黒田孝高(黒田官兵衛・黒田如水)に、二郡を毛利勝信に与え、城井谷城主宇都宮家の城井鎮房には四国今治12万石への移封が命じられた。
鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、秀吉の命を退けて宇都宮一族の総力を挙げて黒田氏、孝高とその子の長政の間に死闘を繰り返し、黒岩山合戦(峯合戦、岩丸山の戦い)では長政を敗退させた。
秀吉は孝高と謀り、所領安堵を条件として、長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し、和睦した。
天正16年(1588年)4月20日、鎮房は中津城の酒宴に招かれ、小姓松田小吉を伴い入城。その従臣は合元寺に止め置かれた。鎮房は中津城で黒田氏に謀殺される。
異変を知った鎮房の従臣たちは次々に城中に入り、龍が荒れるように戦ったという。その中でも家老渡辺右京進は7-8人を薙ぎ伏せたと伝わる。
小吉は19人を殺傷したが京町筋で討死、野田新助・吉岡八大夫は手傷を追って広津広運寺まで切り抜けたが追腹、その他の二士は合元寺までの戦いながら逃れたものの討死。他もことごとく討ち取られた。
小吉は小吉稲荷として京町に、新助・八大夫は広運寺に埋葬され、その他は城内乾の上段、つまり当社地に埋葬された。
天正19年(1591年)、黒田長政は城内守護紀府大明神(城井大明神)として鎮房を祀る。寛永2年(1705年)、豊前中津藩4代藩主小笠原長円は社を建て、城井大権現として崇敬したという。
新藩主・城主として、前代の禍根を祭祀により断ちたい思いが強かったのだろう、その長円は、鎮房のみならず、広運寺追腹二士を小吉稲荷大明神とともに祀ったという。
その後、祭祀は城井大明神に対する祭祀とともに衰微することもあったようだが、城井大明神が城井神社として再興後、大正9年(1920年)4月20日、城井神社の境内末社として正式に創建されたのが当社である。
なお中津城内には、当社とその本社たる城井神社の他、奥平神社・中津大神宮がある。
【ご利益】
地域・家内安全、諸願成就

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扇城神社(せんじょうじんじゃ)は、大分県中津市の中津城址内にある城井神社境内末社にあたる神社。御祭神は宇都宮鎮房公従臣四十五柱。御朱印の有無は不明。
天正15年(1587年)5月、豊臣秀吉が九州平定にあたり、豊前六郡を黒田孝高(黒田官兵衛・黒田如水)に、二郡を毛利勝信に与え、城井谷城主宇都宮家の城井鎮房には四国今治12万石への移封が命じられた。
鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、秀吉の命を退けて宇都宮一族の総力を挙げて黒田氏、孝高とその子の長政の間に死闘を繰り返し、黒岩山合戦(峯合戦、岩丸山の戦い)では長政を敗退させた。
秀吉は孝高と謀り、所領安堵を条件として、長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し、和睦した。
天正16年(1588年)4月20日、鎮房は中津城の酒宴に招かれ、小姓松田小吉を伴い入城。その従臣は合元寺に止め置かれた。鎮房は中津城で黒田氏に謀殺される。
異変を知った鎮房の従臣たちは次々に城中に入り、龍が荒れるように戦ったという。その中でも家老渡辺右京進は7-8人を薙ぎ伏せたと伝わる。
小吉は19人を殺傷したが京町筋で討死、野田新助・吉岡八大夫は手傷を追って広津広運寺まで切り抜けたが追腹、その他の二士は合元寺までの戦いながら逃れたものの討死。他もことごとく討ち取られた。
小吉は小吉稲荷として京町に、新助・八大夫は広運寺に埋葬され、その他は城内乾の上段、つまり当社地に埋葬された。
天正19年(1591年)、黒田長政は城内守護紀府大明神(城井大明神)として鎮房を祀る。寛永2年(1705年)、豊前中津藩4代藩主小笠原長円は社を建て、城井大権現として崇敬したという。
新藩主・城主として、前代の禍根を祭祀により断ちたい思いが強かったのだろう、その長円は、鎮房のみならず、広運寺追腹二士を小吉稲荷大明神とともに祀ったという。
その後、祭祀は城井大明神に対する祭祀とともに衰微することもあったようだが、城井大明神が城井神社として再興後、大正9年(1920年)4月20日、城井神社の境内末社として正式に創建されたのが当社である。
なお中津城内には、当社とその本社たる城井神社の他、奥平神社・中津大神宮がある。
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