藩政以前の奥平氏の苦悩と葛藤・悲劇が凝縮された社、たにし祭
[住所]大分県中津市二ノ丁
[電話]0979-22-3651

奥平神社(おくだいらじんじゃ)は、大分県中津市の中津城址内にある神社。近代社格では県社。三所宮(さんしょぐう)とも呼ばれる。参拝すれば、御朱印を頂ける。

御祭神は貞能霊神(智勇の神)、信昌霊神(開運の神)、家昌霊神(天徳除災の神)、仙丸君霊神(護国の神)。

享保2年(1717年)に豊前中津藩に入府した中津城主奥平昌成が、五穀豊穣・世の泰平を祈念して、豊前一円の守護神として祖先を奉祀したのが創祀。

奥平氏は、第62代村上天皇の皇子である具平親王(村上源氏)の後裔とされ、貞能霊神は奥平貞能(定能。1537年-1599年)で氏の中興の祖として名高い。

信昌霊神は定能の子である奥平信昌(1555年-1615年)で、京都所司代などを歴任、その際、安国寺恵瓊を捕縛している。上野小幡藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主。

家昌霊神は信昌の子である奥平家昌(1577年-1614年)で、徳川家康の孫にあたり、その信任が厚く、江戸の北方の要衝となる下野宇都宮の藩主に任じられた。

いずれも奥平氏が中津に入る前の当主で、三所宮の名称はこの3神によるものか。しかし、境内掲示板などでは触れられていない、仙丸君霊神こそが奥平氏ならびに当社の核心なのかもしれない。

仙丸君霊神に関し、奥平氏で仙丸君と言えば、定能の子。当時は今川氏、徳川氏、武田氏に囲まれ、服従離反を繰り返すしかなかったのが奥平氏だった。

その中で、仙丸君は武田氏に人質に送られたが、武田信玄の死後、定能が徳川氏に服従したため、仙丸君は武田勝頼により殺される。10歳前後だったと伝わる。

愛知県岡崎市夏山町の華蔵院に「仙丸君裹首布」という血染めの白布が保存されている。これはその首級をくるんだものとされる。

当社では毎年5月21日に例祭が執り行われ、たにし祭(たにしまつり)と呼ばれる。

天正3年(1575年)、長篠の戦いで奥平氏の軍勢500人は武田勝頼軍1万5000人に攻められたが、長篠城でタニシを食べて籠城、徳川・織田の連合軍を待ち、武田勢を破り勝った故事によるもの。

つまり、たにし祭は仙丸君の敵討ちがなったことへの祝賀でもあるわけで、仙丸君に対する慰霊・鎮魂が主なのかもしれない。

例祭や、仙丸君の件も含め、奥平氏は中津藩政以前に多くの葛藤・苦悩・悲劇があったことを忘れまじとの意気が形として残ったものが当社だともいえる。

奥平氏は結局明治維新まで155年間もの長きにわたってその藩政を保ち、当地振興に寄与するが、それらもすべて藩政前史による賜物との意識が歴代藩主にあったのかもしれない。

なお、中津城には多くの神社があり、当社の他、城井神社扇城神社中津大神宮が点在する。

【ご利益】
学問、開運招福、交通安全、無病息災、家内安全
奥平神社(中津市) - 藩政以前の奥平氏の苦悩と葛藤・悲劇が凝縮された社、たにし祭
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奥平神社の御朱印